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元気を出してコンドル


 その女性は、斜め向かいのアパートに住んでいる。名前も年齢も知らない。
 一年ほど前の日曜日、ベランダで洗濯物を干していた僕は、右斜め下(僕の部屋は三階だから、彼女は二階)の女性に初めて気づいた。
 彼女は空を見ていた。ベランダに面した掃き出し窓を開け、床にぺたんと座り、空を見ていた。

 毎週日曜日、彼女はそこにいた。
 僕はベランダに出るたびにこっそり(のぞきをしている変態と疑われないように)右斜め下に目をやった。
 置物のように動かない女性。不思議な人を見つけたと僕は思っていた。

 日曜日の夕方になると、彼女は同じ場所に座ったままアコースティックギターを弾いた。
 毎週同じ曲。僕も知っている『コンドルは飛んでいく』だった。僕はその曲に、雲ひとつない青空を大きな鳥が力強く飛ぶ、そんなイメージを抱いていた。
 でも、彼女のギターの音は、徐々に暗くなる空と同化する鳥だった。黒い鳥の影を描く音だった。僕の中で、寂しい音が羽を閉じたまま空中旋回をする。
 その頃の僕は、この街に知り合いもなく、デートの約束をする人もいなかった。大学とアパートの往復だけの日々。日曜日は洗濯と掃除の日。
 僕は夕暮れどきのベランダで、乾いた洗濯物を持って『コンドルは飛んでいく』を聴いた。毎週日曜日の小さなお楽しみだった。

 とある日曜日の朝。
「待って。待ってよ」
 ベランダで一週間分の洗濯物を干していた僕は、女性の絞り出すような声を聞いた。
 右斜め下に目をやると、あの女性がベランダの柵から身を乗り出すようにして、下に向かって叫んでいた。
 僕と彼女のアパートの間にある路地には、肩幅の広い男の後ろ姿があった。女性はその後ろ姿に呼びかけている。待って。待ってよ。
 振り向きもしない男の姿が見えなくなると、ベランダの女性は、そこでうずくまった。たぶん泣いていた。震える空気が僕にまで届いた。
 僕は目をそらし、自分の部屋に入り、音を立てないようにそっと窓を閉めた。

 その日の昼、僕は近所のコンビニに行った。弁当を持ってレジに行くと、横のケースにあったあんまんが目に入り、ひとつ買った。
 甘いものは久しぶりだなぁと思いながら戻ると、アパートの前で髪がぼさぼさの女性がゴミ出しをしていた。すぐに右斜め下のベランダの彼女だと分かった。

「あの、あんまん、食べませんか」
 自分でも驚くことに、初対面(対面するのは初だ)の彼女に僕は声をかけていた。言った瞬間に、恥ずかしくなった。
「今、そこのコンビニで買ったばかりだから、あ
の、毒とか、そんなものは入っていません」
 自分の言葉の怪しさに、顔が熱くなるのを感じた。
「えーと、僕はこっちのアパートに住んでいる者でして」
「知ってる」
「えっ?」 
「じゃあ、あんまん、ちょうだい」
 彼女は無表情のまま、手を差し出した。

 僕はエコバッグの中から紙に包まれたあんまんをひとつ急いで取り出し、彼女の手のひらに置いた。彼女はあんまんを黙って見つめた。
「あの、じゃあ、食べてください」
 僕は逃げるように自分のアパートに入った。僕の手のひらには、あんまんの温かさが微かに残っていた。

 その後、右斜め下の彼女はベランダに姿を見せなくなった。僕が変なこと(初対面であんまんをあげるなんて)をしたからだろうか? 
 もやもやとした気分で数週間を過ごしていたけれど、大学で友達ができて恋人もできて、週末も忙しくなると、もやもやも薄れてきた。
 平日の夜、右斜め下の部屋を見ても、窓は閉まり、厚いカーテンが引かれている。彼女の姿を見ることはなくなった。

「あんまんくん!」
 今日、アパートの前で突然女性の声を聞いた。
 振り返り、その女性が右斜め下のベランダの彼女で、僕に声を掛けたのだとわかるまで数秒かかった。それほど、彼女の雰囲気は変わっていた。
「あのときは、あんまんをありがとう」
 姿勢良く立つ彼女は、僕の目を見て、顔いっぱいに笑みを広げて、それだけ言った。
 そして、手を振って、駅に向かって歩いていった。ベージュのコートの裾がひるがえって、鳥の羽みたいだった。大空を飛ぶ鳥。
 僕はその後ろ姿を見送った。
「あんまんくんは、ひどいよなぁ」
 不満を声に出したけど、笑いが込み上げてくる。ぷっと吹き出した。
 久しぶりにあんまんが食べたくなった。よし、買いに行こう。
 僕は、ギターのあのメロディに「あんまん食べた鳥、こんどぉおる、こんどぉおる」と、出鱈目でたらめな歌詞をつけて歌いながら、コンビニに向かって歩いた。
 東京のコンドルはなかなかの美人だった。


⭐︎過去作品『元気を出して』を改題&修正
1858文字



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