面接について

 面接が苦手だ。昔はそうでも無かったのに、年々苦手になって行く。今では恐怖心すら感じる。その場に出ると、足が震え、声が震える。自分を根底から奮い立たせて、女優になったつもりで笑顔を心掛け、真摯な態度で臨んでも、結果が出なかったりする。様々な要因が重なって、私は面接恐怖症になってしまった。
 心から望んだ仕事から、あまりにも疎外されるので、面接必勝法などを調べてみる。自分には自己アピール力というものが欠如しているのかも知れなかった。
 基本的に、面接には自信とヤル気を持って臨む。しかし、時にそれが驕りと取られるのか、面接官の表情が一変、結果も惨敗…ということが続いた。
 面接では自信と余裕が必要だと書いてあったが、私が受けた面接に関して、それは良い印象を与えなかったということなのか、そもそも自分が思っているほど自信も余裕も相手には伝わらなかったのか、私以上に魅力的な人材が多数応募していたということなのか…敗因を教えてくれるような親切な企業が無いので判らない。私は自分を振り返り、自己反省から学ぶことでしか次へ進めない。
 私は日本生まれの日本育ち、両親も祖父母も日本人で、自らも日本人以外の別人ではないせいか、日本特有の謙虚さというものが美徳であるという認識の元、今日まで育った。それを自己アピールの中に組み込むことが、自信や余裕のなさに繋がると言った意識はまるで無く、一歩引きながら〝自信はないが努力は出来る〟といった表現をすることが多かった。しかし相手にとって、それは謙虚さと映らず、単なる自信の無さとしか映らなかったのだろうか…。自信に関して言えば、思い当たるのはその辺りで、もし敗因が別のところにあるのだとしたら、変革すべきも別のところにあるということだ。
 私は自分が面接官になったことはないが、個人的に、謙虚さのない口ばっかりのタイプが苦手だったりする。〝有言実行〟とは意外に難しいようで、言ったことを必ず実行に移せる人というのが、世の中には実は少ない…というのが持論でもある。その為、自分自身がそれを良しと思わないことから、〝出来ないことは言わない〟という姿勢を常に持ち続けてきた。狡いかも知れないが、「出来る」と言わなかったことが出来た時の方が、ずっと印象が良いからである。なので、なるべく人前で実力以上のことを口に出さないようにしているのだが、人を査定する立場の人間にしてみれば、口だけでも「出来る」と言い切れる人間の方が、印象が良いのかも知れない。
 世の中には様々なタイプの人間がいるが、私という人は、〝与えられたチャンスに対して、実力以上の働きが出来る〟タイプだと思っている。しかし裏を返せば、チャンスが無ければ発揮する場所も無いということで、更に、チャンスがあっても先ずそれを掴めなければ、発揮出来ない前に発揮する場所にすら恵まれないということになるのである。
 苦手な面接を切り抜けて私が何になれるのか、今の私には何もわからない。目標や目的を持って挑んでも、それを達成することさえ出来ない私には、自分自身の身の丈に合った未来が想像出来ないせいだ。
 今の私はとても気弱である。
 面接なんてなくなれば良いとすら思っている。
 きっととても疲れているのだろう。
 休める時は休んだ方が良いのかも知れないが、そろそろお尻を叩く何かが襲いかかって来そうな気配がする。
 恋も仕事も、器量や実力だけではどうにもならないことがある。HOW TO本などは参考になっても、それが社会のすべてに共通するものではないことは、生きる経験を積めばある程度理解していく。私は恐らく、沢山考えすぎて、案外単純に出来ているような仕組みにさえ、過敏に反応しているのかも知れない。
 ではそれを忘れて、真っ新な社会人一年生並みの純粋さを持って世の中に踏み込めるのかと言えば、それもまた容易ではないのである。
 器量や実力で勝負出来ないのであれば、あとは天運に任せるしかないのであろうか…。数学的なものの考え方が下手である一方、感覚主義の勝る自身の個性を偽ることなく、目に見えない縁に頼って、自らが引き寄せる道を歩むことが、今、私に出来ることなのかも知れない。と言いつつ、今まで同じ方法で生きて来たことを思えば、これからも前途は多難ということか、末恐ろしいことこの上ない。
 沢山学び、それなりに成長しても来た気でいるが、世の中にとっての私のニーズがどこにあってどの程度なのであるか、なかなか自分自身で把握するのは難しい。
 明日の不安を考えずに、こんなことを書き込んでいる今が、一番私らしく、一番違和感のない事実であるが、知る限り世の中とは、頗る厳しい場所なので、お尻を叩く何かが、その内棍棒さえ振り翳して来そうである。

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