嫁という存在⑤

 祖母が実家に戻って間もなく、同居している叔父から、母に再々連絡が入るようになった。
 病院に行った祖母が、カバンごと持ち物を失くしてきたとか、箪笥に入れておいたお金が無いと言って一晩中探し回ったとか、そんな類のことが頻発したのである。
 あまりにも訴えが多いので、その年の初夏に急遽母が実家を訪ねたのだが、探し物は見つからず、紛失した持ち物は出て来ないままで、通帳やら印鑑やらをすべて作り替えなければいけない大騒ぎとなった。お金のことは恐ろしい為、母や夏子さんの夫である下の叔父の同意のもと、結局冬子さんが管理することになったのだが、身内の誰もが、親戚の冠婚葬祭に必要なお金さえ包むことを渋るこの嫁に、祖母の預貯金の管理を任せることを快く思わなかった。
 祖父が健在な頃、老夫婦は二人分の生活費としては充分過ぎるくらいの金額を嫁に渡していた上、新聞代と電話代まで支払っていた。電話などすることのない祖父母が、何故そこまでする必要があるのか理解出来なかったが、祖母は「出せるもんは出しといた方がお互いの為に良いんよ」と笑っていた。
 そもそもお金を使わない二人である。衣類は穴が空けば繕ってまで着る人であったし、野菜は畑で作っているので事欠かない。それに水道は山水を汲み下ろしている為、タダ同然である。風呂もガスは使えるが「山に木はいっぱいあるから」と、薪を拾ってきて焚いていたので、自給自足にほど近い生活であった。
 祖父の贅沢と言えば、僅かなタバコと焼酎ぐらい。それも浴びるほど呑むわけではなく、本当に慎ましさこそ世の平和という姿であったように思う。      
 健康な二人であったが、老齢に伴い、多少は医療費も必要としたであろう。かといって年金暮らしの身でも、充分事足りる範囲であったようだ。
 祖父亡き後、その遺産の殆どは実家の叔父夫婦の元へ〝今後の供養などのため〟と称して委ねられたが、母も下の叔父も、その点に関し異議を唱えることはなかった。どちらも裕福ではないが、それぞれ最低限の生活は営めていたし、そもそも親の残した金を手にしたところで、勿体なくて手を付けられない人達であった。故人である祖父の今後の為に使うよう計らってもらうことが、妥当であると双方の結論であった。
 画して祖母の財布は冬子さんが管理することになり、祖母本人は心もとない思いをしたようである。自分のお金を自分で自由に使えないというのは、誰にとっても窮屈であろう。とはいえ、美容院に行っても万札で支払い、釣りをもらわずに帰ってしまうようになっていた祖母の金銭管理を、離れた場所に居る娘の母が行うことは難しく、自分のお金を思うままに出来ない祖母の気持ちに寄り添いつつも、意のままにしてやることが出来ない母もまた、苦しかったようである。
 急遽田舎へ飛んだ母に、叔父が言ったという言葉が、私は忘れられない。
「交通費、おばあのとこからやけん、もらっとけ」
 差し出された封筒には、それ相当の金額が包まれていたが、母は突き返したという。自分の母親の緊急事態に駆け付けたことに、何故、当の親からお金を取ろうと思うのか。そもそも、叔父夫婦によって手に負えないと判断されたから、母は呼ばれたのである。叔父夫婦が「ありがとう」と交通費を出したのであればまだわかるが、何故、本人の了承無く祖母のものの中から支払おうとするのか。いずれにせよ、〝親の為〟と思って出向いた母は、受け取らなかったであろう。

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