嫁という存在⑥

 祖母の認知症状は急ピッチで進み、叔父からの電話が鳴る度、母の表情は曇るようになっていった。植えたばかりの大根の苗を片っ端から抜いて行ったとか、風呂を空焚きして危うくボヤが出るところだったとか、いかに問題行動が多いかという訴えが続く。そして最後には「施設に入れることも考えないかん」という話へ向かう。しかし施設に空きはなく、空きのあるところへ入れようと思えば金がかかる。祖母の年金だけでは足りない。要はこちらから足りない分を出せと言いたいのであろうが、私達にしてみれば、〝施設に入れる〟という考え自体が言語道断であった。
 結局、症状は悪化の一途を辿る為、介護認定を受けた上で、デイサービスに通うことになったのだが、今度は祖母自身が迎えのバスを待ちきれず、施設まで歩いて行ってしまうということが頻発したのである。その度に冬子さんに連絡が入り、仕事を抜けなければならなくなった様子であった。
 帰省の折、祖母の様子を聞いたり、施設からの連絡ノートを見たりして、私はあることに気付く。この叔母は、祖母が普通の健康な大人と同様のことが出来なくなっているということを、全く受け入れていないのだった。バスに乗らずに出かけてしまえば、〝何故あんなことをするのか…ご迷惑をお掛けして申し訳ありません〟と書き、〝何度も言い聞かせているのですが…〟と加える。驚いたのが、祖母がデイサービスに出かける朝も、帰って来る夕方も、家からは送り出す者もいなければ出迎える者もいないという事実であった。
 夫婦共働きだが、生活費にそれ程金を要するとは考えにくい田舎暮らし。子ども達も自立して既に家を出ている。片やパート勤務で時間の融通が利かないわけでもないのである。程度は軽くても、介護認定を受けた老人一人を送り出して出迎えるぐらい、何故出来ないのか。いや、出来ないのではない。したくないのである。だから、行って帰って来ることの出来ない現状を知りつつも、それを自分でまともに出来ない祖母が悪いことになっているのであった。
 私は情けなくなった。
 私達がある程度大きくなるまで、実家での家事炊事は祖母の仕事であった。私が幼少で、叔父が独身だった頃は、未だ祖父母は働いており、母は帰省すると家事炊事を手伝い、祖母が会社のバスで帰って来るのを、よく迎えに行ったものである。
 冬子さんが嫁いで来たあとの記憶は定かではないが、彼女は仕事を幾つか変えた後、昔祖母が勤めていた工場を紹介されてパートとして働き、祖父母はその工場から頼まれた内職の仕事をしながら、家事の一切と孫(従妹弟)の子守りをしたと聞いている。特に従弟は甘えたで、学校から帰ると祖父母を探し回ったらしい。そんな彼を二人は特に可愛がったし、大きくなってからも二人の口から彼の名前が出る度、一緒に暮らしたいと思っていてもそれが出来ない自分と比べ、私は寂しく感じたものだった。
 それなのにこの仕打ちである。祖母は嫁に、何かを求めて与えて来たのではないだろう。必要な時に、必要な手を差し伸べて来ただけである。しかし今、それは逆転している。祖母に与えられて然るべき手が、何故差し伸べられないのか…。私は理解に苦しんだ。
 そして衝撃の一言が私達を襲う。
 夏の帰省から大阪に戻る際、例の如く冬子さんは姿を見せなかった。私達が来ようが帰ろうが、彼女が出迎えもしなければ送りもしないのは、昔から変わっていない。
 私が小さい頃、冬子さんが嫁いでからも暫くは、祖母がまだ会社勤めをしていた。当時はまだ飛行機と汽車を乗り継いで帰省していた為、実家に着く大まかな時間は伝えていたはずであった。しかし実家は昼間だというのに真っ暗で、インターホンを鳴らしても誰も出て来ない。祖母が仕事に出ているのはわかっていたが、鍵は開いている。実家とはいえ、嫁いで来た嫁が居る時点で、母は気を遣った。玄関の外に荷物を置き、私達を連れて外周をうろうろする。結局、中に入ることも出来ず、祖母が仕事から戻るのを待ったのだが、その時、当の冬子さんは二階の自室で寝ていたのだと後になって聞いた。
 そういう人だから、私は居ない事を然程気にもせず、寧ろ居なくても良いと思っていたのだが、母は違った。介護の必要になった実の母親を一番身近で看なければならないのは冬子さんだと弁えていた母は、わざわざ彼女が姿を現すのを待ち、「世話をかけるけど宜しくお願いします」と頭を下げたのだ。
 その様子を隣の部屋から見ていた私は、次の瞬間、冬子さんの口から飛び出した言葉に一撃を食らった。
「私はみぃひんよ!」
 その後、どのようにして帰り支度をし、車に乗り込んだのかはっきり覚えていない。恐らく運転していたのは私だが、後部座席に愛犬と一緒に乗っていた母は車酔いをして吐き続けた。自宅に戻ってからも頭痛と吐き気で一週間ほど寝込み、殆んど食べられない状態が続いた。
 いつ頃からか、母は心身の疲れが極限に達すると、酷い車酔いをして吐き気に襲われる。原因は明らかだった。

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