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佐田 公子 歌集 『天 楽』(てんがく)

本阿弥書店(2022年9月28日) 新輯覇王樹叢書第233篇


帯文より


亡くなった夫も長男も光になった。
西空には天楽が聞こえる。

そう新型コロナウイルスで、またウクライナの戦禍で命を落とした人々も、光になって天楽を奏でている。

この世の埒外でこの世を見守っているはずだ。
きっと、きっとそうだ。 


著者自選5首


落合の桜は君との見納めぞ今日もスマホに花盛りなり

今ひとつ力の入らぬ霜月に竜首水瓶を立たしめよ

大けやき雄々しく立つを見上げたり わが精神の一樹となさむ

白金しろがねの芒 黄金くがねの菊の花 光束ねてどこまでも秋

西空は膨らみはじむ 亡き人らなべて奏でむ夕つ天楽

          ✤

ダイアモンド富士には少し逸れたれど入りゆく夕陽を君と見つむる 
(巻頭歌)

「いい歌だ」と笑まへる君の眼の中の泉のごとき少年に逢ふ

息子には妻はなければ別れ際ふたたびみたび頬擦りをせり

科学本のわれの知らざる領域に亡き息子この脳は遊びてゐたり

朝靄の中を佇む一本の楡の木となりわれは生きたし

完璧な最期でありしか亡骸は光となりてわが胸に棲む

ひよつとしてわが掌の裏側にかの世はあらむか裏返しみぬ

人で在ることは苦しき人でゐることも悲しき響け天楽

(巻末歌)

佐田公子 第六歌集『天楽』/装画 高橋美香子


鎮魂と希望の在り処

桜井 京子(香蘭選者)

歌誌「覇王樹」代表の著者の第六歌集。著者は前歌集『夢さへ蒼し』の後、長男と夫君を続けて亡くしており、間なく編まれた本歌集はその鎮魂のための一書である。


開花待つただひたすらにじつと待つ桜大樹を君に見せばや

一斉に新芽吹き出す日の光 遊びをせむとやわれら生まれき


冒頭近くにおかれた二首を引いた。
一首目の桜の開花は、待ち焦がれた春の訪れであり、入院中の夫君を励ましたいとの思いから歌い出されている。

二首目は、心浮かれる新芽の季節に「梁塵秘抄」を引用して、ひと世の儚さを際立たせる。どちらも春という命の迸る季節にあって、生を完全燃焼させたいとの切なる思いが感じられる。

葬儀社の係がわが子を迎へにくる われではなくて吾の息子を

しとど降る雨に濡れゐる青柿のその青さもて子は逝きにけり

逆縁は人に告ぐべきものならず されどなどてか歌はざらめや



かねてより療養中の長男だったが、その死は突然やって来た。三十八歳であったという。

一首目、亡くなった事実は耐え難いことだが、業者に依頼して後は任せるしかない。
二首目は、降りしきる雨の中の青柿に我が子の生を重ね、親なればこその嘆きは尽きることがない。
三首目、子の死はあくまでも個人的な事情であり、その嘆きを歌うことが歌人としての務めなのか。否、作者は歌わずにはいられないという。歌人が身の内の事情をさらけ出して歌うのは、その事実を他者に知ってほしいからではない。悲しみを見つめ、この詩形に委ねて耐えるほかないのだ。


十五なるわれに歌をば教へにし君なれば詠まむつひの訣れを

親指に棘刺さりたり 虫眼鏡ピンセットもて亡き人よ来よ

われを呼ぶ「おーい、二階の政所」君の口癖懐かしきかな

戦死でも事故死でもなし津波にも呑まれざる訣れ 幸といふべし


夫君との出会いは、高校教師と生徒という関係から始まった。後に夫婦となり、文学という絆で固く結ばれた二人であった。互いに歌人であり師でもあり続けた夫君だが、棘が刺さったと言えばいそいそと駆け付け、ある時は二階に籠もって仕事を続ける妻に電話をして、ユーモアたっぷりに呼び掛ける微笑ましい日常があったのである。文学という共通項を持ち、これは非業の死ではないと、その死を受け入れるには、互いを信頼し理解し合う長い語らいの歳月があったのだろう。


初校から再校・三校・念校と念々校に念々念校

コロナ禍を知らずに逝きし夫と子よ羨ましくも想ふ日のあり

偶然は必然なりや変異するウイルスももいかなる化生

西空は膨らみはじむ 亡き人らなべて奏でむ夕つ天楽


長男と夫君の亡き後も、主宰する結社の運営や古典の講師として多忙を極める作者。彼岸に去った彼らはコロナ禍に煩わされることはないが、生きてある者は、ウイルスとも戦い続けていかなければならない。はるかな西空に天楽を奏でる人々がいるという空想は温かみがあり、悲しみを乗り越えようとする作者に安堵感を与えている。本書は、そんな作者の鎮魂の先に、希望の在り処を示した歌集といえよう。

 

響け「天楽」

高貝 次郎

佐田公子さんの第六歌集『天楽』。『天楽』の帯の書き出し部分では「亡くなった夫も長男も光になった。西空には天樂が聞こえる」とある。ここで思い出すのは平成十九年発行の第三歌集『過去世のかけら』に載る次の一首である。


我が腎は子の脇腹に輝けり 鳳凰堂を 響け 天楽


この作品について、栗木京子氏は七頁に及ぶその跋文の中で、「この歌に接して私は思わず『よかったー。』と声に出していた。一字あけを有効に生かした『鳳凰堂を 響け 天楽』の喜びのしらべはすばらしい。云々」と述べておられる。

『天楽』には平成二十九年から令和四年までの六年間の作品460首が載る。あとがきにもある様に前歌集『夢さへ蒼し』では「長男が亡くなる年の前年までに留めた。長男の死と次の年に亡くなった夫の死をまだ受け入れたくなかったいうことが正直なところである」と記す。世間の習わしに従って「佐田毅追悼号」(通巻1151号)を出した時の心境が偲ばれてならない。


「いい歌だ」と笑まへる君の眼の中の泉のごとき少年に逢ふ
(平成二十九年)

子が逝きたる三十八歳 この歳は夫が息子の父となりし年
(平成三十年)

改元を知らずに逝きし子と夫「昭和」「平成」ひたに生ききる
(平成三十一年・令和元年)
 

抄出しながら、同時に毅さんの第四歌集『ほがらほがらの』を紐解いているのだが、その中には、


浄土へと招かれゆくは楽しからん夕べは経を唱えてをりぬ


という作品も載っている。


われを呼ぶ「おーい、二階の政所」君の口癖懐かしきかな
(令和二年)

カレンダーを捲れば長月 牧水忌・糸瓜忌のありそして充忌
(令和三年)

 
心に触れるままの抄出であるが、そこにはこの様に真実の心を作品に昇華させている著者の姿があった。
もう一つ別の意味で意義深い作品を次に抄出する。


東聲とあさ子の別れや大震災 苦渋の時は誌面に溢る


(橋田東聲は「覇王樹の創刊者。あさ子はその妻で後の北見志保子)


歴代の万葉集の編集の苦労を知りたる五反田通ひ

五輪はも四年に一度「覇王樹」の一〇〇周年は世紀に一度


こうした作品の背景にあるのは責任を伴う今を生き抜こうとしている公子さんの現実がある。覇王樹の代表に加えて日本歌人クラブの中央幹事としての果たすべき責任の重さである。私にも五反田の事務所に通っていた時期があったので、当時のあの狭苦しい二階の事務所には懐かしさを覚える。毅さんが中央幹事の任にあった時期とも重なる。

日ごろには、「ああここがかの世へ通ずる径ならむ秋の光に満つる土手道」、「白金しろがねの芒 黄金くがね の菊の花 光束ねてどこまでも秋」「大けやき雄々しく立つを見上げたり わが精神の一樹となさむ」等と詠みためつつ、歌人としての人生を全うしながら、最後に心の底から発する肉声を、


人であることは苦しき 人であることぞ悲しき 響け天楽
 

という何とも尊い一首として巻末に載せている。これが新輯覇王樹叢書第233篇となった歌集『天楽』なのであった。


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