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青山 良子 歌集『月の卵』

鉱脈社(平成24年5月刊)


新しい短歌の一方向

杉谷 昭人(日本現代詩人会)

この『月の卵』は、青山良子さんの第二歌集であり、三章計四四二首が収められている。十年前の第一歌集『光の起点』の折には、自然詠の一部が歌集一巻の完成度をそこなっているように見受けられる部分もないではなかったが、今回の『月の卵』においては、女性らしい多様なモチーフとその文体の統一にそれなりの配慮と工夫がうかがわれて、きわめて訴求力のつよい一巻になっている。

青山さんの歌は、どのようなモチーフを扱っていても、その中心には人間が生き生きと躍動している。父に母、娘に息子、それから孫と、その対象はさまざまだが、作者の主体的な愛情と対象への客観的な観察眼との絶妙なバランスをもって、その一人ひとりのイメージが立ち上がってくる。タイトル作となった、孫を詠んだ作も良いが、とりわけ亡くなられた御主人を描かれたものには、同時代を生きてきた者のひとりとして胸打たれるものがある。


昼月の径に拾った石ころを“月の卵”とおみな子は言う

「良き人がいたら付き合え」死に近き夫の遺言ひそかに収う


夫を亡くし、女手ひとつで子どもたちを育ててきた青山さんの精神の自立性は、その語法や表現形式にもはっきり反映している。言い切る強さ、あいまいさを残さない歌いぶりのさわやかさである。だからと言って、決して大上段に振りかぶっているのではない。技法的には、あくまでも小さな発見や体験から大きくイメージをふくらませていく技が巧みなのだ。心象を風景化する力量である。


幼こぐ二輪車はゆくデュランタの花房ゆるるむらさきの道

結婚も訣れも桜の咲く日なり夫還り来よ花かげに待つ


青山さんのきわめて個性的な擬声語・擬態語(オノマトペ)については、佐田毅氏が巻末の跋文で詳細に触れておられるが、既成の形容詞や副詞の安易な使用を拒否するという意味から見ても、口語短歌がいっそうひろまっていくだろうという点から考えても、このオノマトペは今後いっそう重要視されるようになっていくだろう。青山さんの言語意識の鋭さはここにも表れていると言ってよい。


眠りつつ覚めつつ器用にひむひむとミルク飲み干す赤児のふしぎ

保育園で覚えたるらし くくくくと口付けをする幼ツインズ


短歌は、伝統的な国民詩としての地位をいまも占めている。それだけに古典的な修辞、類型的な表現につい陥りがちにもなる。しかし青山さんの歌には、もう詳述するゆとりはないが、現代風のユーモアや諷刺も十分にふくまれていて、再読三読するごとに、新しい表情を見せてくれる。良い歌集とはそういうものなのである。旧来の短歌観に風穴をあけようとする青山さんのつよい気持ちが、どのページからも伝わってくる。その象徴ともいえる一首を引いて、拙稿の結びとする。


ビンの蓋すっと開かねば苛立てる吾のモノローグ風がさらえり


その明るさと温かさ

高貝 次郎(覇王樹)


死の際まで滴りゐたる姑の尿導尿バッグの管に輝く

そら豆に似し雲浮けり腎臓をひとつもがれて夫は逝きたり


第一歌集『光の起点』に載る二首である。そして私はこうした作品から受ける著者の生き方や考え方にいたく心引かれながらその時の批評特集号で作品に対する思いの丈を述べたのだった。あれから九年の積み重ねを経て出版された今回の『月の卵』である。


春の陽を束ねたような明るさに双子の女の子ならび眠れり

幼子は小さき秋に駆けよりて芝生に落ちしどんぐり拾う

魂をまるごと投げるかのように幼はどどんと吾が胸に来る


一首一首の技巧もさることながら、この歌集の基調となっているのは双子である幼い二つの命、そしてそれを見つめる著者の天性からくる健やかな心と明るさにある。その明るさはそのまま読む人の心にも心地よく沁み込むから読者としては爽やかな読後感を味わう事となる。ともすれば暗くなりがちな出来事の多い現代の世相の中で、これは一服の清涼剤ともなる。


夜の更けを道にとどろく変声期の少年らの声苦労なき声

猫のごと寄りきて物を売る少女左の耳にピアスの光る


一首目は著者の生活圏の中で、二首目はアンコールワットの旅の途中で偶然に接したものを即効的に詠っている。目ざとく対象を捉えているし、その切り口は鋭い。


秋ふかむ美幌峠は風ばかり風ばかりなりわがゆく道も

牛も豚も 鶏とり も眠れる日向野に鎮魂の火よ山灰なのんのんと降る


更に旅の歌を二首。旅を楽しみながらこの様にしていともやすやすと自らの感慨をまとめあげている。自在の心で旅を堪能している大らかな著者の姿が浮き彫りになっていて捨てがたい出来栄えである。


今生に再接近の日は来ない火星を体内宇宙にしまう


「体内宇宙」なる言葉は男性の発想からは普通浮かばない。その意味では女性ならではの作品といえる。それにしてもスケールの大きな歌である。こういうところにもこせこせしない明るさが滲み出ている。
終りに少し視点を変えながら注目をした作品を四首。


逝きし夫、逝きし日のまま 榊の木植えつつ吾はまた齢をとる

凡庸の己をときに鼓舞せしめ生ききていよよ古希を踏みたり

淋しとは言わず生くれば百舌となり空に絶叫したき日のあり

六十年の時空を超えて亡き母の声聞こえたり風に耳研ぐ


ここでは著者の内面を滲ませた作品を抄出した。著者はあとがきの中で「宮崎の海の色のように明るい、温かい歌を願っています」とはっきり述べている。その目的を達した歌集である事はすでに述べて来た通りであるが、作品は決して嘘を付かない。明るさを意識するからには、負の部分も抱えている事を意味する。だからこうした作品が含まれる事によってこの歌集に一層の厚みが加わるのである。歌を詠む、とはそう言う営為の積み重ねに他ならない。


音喩の森を行く――

臼井 良夫(覇王樹)

「昼月の径に拾った石ころを“月の卵”とおみな子は言う」と歌うように、この題名は幼い子供の口から出た比喩だった。青山さんは喩の名手である。直喩あり隠喩あり、なかでも音喩(オノマトペ)のオリジナリティーは他に類を見ない程豊かである。「さみどりの木々に雨降る閑けさやことばは雫のごとくありたし」と歌うように、喩は零れ落ちる雫なのかもしれない。


眠りつつ覚めつつ器用にひむひむとミルク飲み干す赤児のふしぎ

サフランの芽の萌すごとぴこり出て赤子の前歯小さく光れり

風邪ひきの孫に見せやるゆんわりと茜に溶ける柿の実たちを

ふくふくと幼に好奇の実の太りあの棚この棚物つかみ出す


この独創的な音喩は、いかにも幼児にふさわしい。成長の過程からつむがれたようなこれらのオノマトペは、あたかも幼児の身体語となって伝わってくるから不思議である。


ほきほきと涸びし音に鳴る膝よ七十二年生き来し証

イラクには戦さの炎ほんほんと炎天のもと梅を干しおり

ゆくさきに君待ち居れば恐れ無くほつほつ歩まむ老婆の道を

鳥フルは終息なるや如月のひゅうがの空の群青仰ぐ


音喩はまさしく肉声語である。枝を伝う雫がふくらんで、やがて零れるように発せられたこれらの語は、その人ひとり切りのものなのかもしれない。地名の 日・ 向・でさえ、その音に重ねて音喩のあやにしてしまう。


春の陽を束ねたような明るさに双子の女の子ならび眠れり


集中、佳詠中の佳詠であり、直喩が見せる力であろう。何という描写力か。


幼子の知恵の重さも測るかに抱き上げている向日葵の庭

どんぐりを拾いゆくほど零れゆく秋こぼれゆく幼の掌より

猫じゃらし掲げて走る三歳児ひかりをまとう風の子のごと

夕つ方待ちいる吾に駆けて来る児は魂の鈴ゆらしつつ


喩に包まれたようなこれらの子供の情景は、まさしく童画の世界。私が○印を付けた作品はまだまだあるのだが、ほんの一部しか紹介出来ないのが残念でならない。
この歌集のもう一つの特色は、花・植物の佳詠がきわめて多いことである。「七十坪の癒しの庭があるゆえに春夏秋冬地球をむしる」と歌うように、こよなく植物を愛し、それらに寄り添っておられることが想像される。


植物はしずけき伴侶現身にサルビア赤きくちびる向くる

団欒も乖離もありし二世帯の庭に真白く茉莉花の咲く

たかだかと赤溢れ咲く百日紅夫の棲みたる天をも染めよ

逝きし夫、逝きし日のまま榊の木植えつつ吾はまた歳をとる

結婚も訣れもの咲く日なり夫還り来よ花かげに待つ


これらの花々に見ているのは人生の哀歓な桜はなのかもしれない。終わりに、集中一番好きな花の歌を記して、私の拙ない感想を終えたい。


幼こぐ二輪車はゆくデュランタの花房ゆるるむらさきの道


批評特集―覇王樹2013年1月号転載


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