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山口 美加代 歌集『銀河を渉る』

ながらみ書房(令和3年12月5日) 新輯覇王樹叢書第232篇



帯 文


混迷の時代を、銀河を渉るようにしなやで大胆かつ繊細な感性によって紡ぎだす瑞々しい歌のリズム
富良野のラベンダーの香りから街の小さなカフェの香り
共に生きた日々の歌を亡き男に贈り、
また明日に向かって歩み続ける
都会の銀河を、
そしてあの遥かな銀河を目指して……
(佐田公子)


雲ひとつ止まらぬ富士の全容のきれいすぎるのが少し気になる
(巻頭歌)

イヴの夜の街の匂いを分けてゆく編み上げブーツをきゅっきゅっと鳴らし

真っ白のコットンシャツに手を通しざわっと噎せる夏を掴んだ

餌を運ぶ軌跡迷わず一直線燕のような日々もあったか

まぶしい夕茜の中へ入りゆくぎいこぎいこ観覧車は昇り

抜きんでるポプラの上枝揺れながら空に近づく いつか空になる

毎日のなんと平和に過ぎゆくかコロナを恐れ家に籠もれば

過ぎ来しの事は事としこれよりの「わが取説」を亡夫に告げおり

単身者無職のわれの存在証明 朝の目覚ましベルが鳴る
(巻末歌)

          

著者自選5首


ドライヤーに乾かす髪はさららら りん 昼には昼の鬼が生まれる

身に纏う薄物一枚あればよし今夜は夢で銀河を渉る

彼方へと波続きおりポセイドンよ 海が攫った魂を鎮めよ

御堂筋線見える病室を選びおり都市型人間の夫のため

君がいた時間も包む青い壺 海への回帰のように


わたし・私・ワタシ

安田 純生(「白珠」主宰)

山口美加代の第三歌集『銀河を渉る』をひもとくと、冒頭から二首目・三首目に次の歌が置かれている。

一斉に富士の裾野の芒が騒ぐ罠を仕掛けたのはワ・タ・シ

銀色に光る芒を分け入らば待ち伏せするか明日のわたし

「富士の裾野」とあれば広大な野が想像されるので、「一斉に…芒が騒ぐ」からは、相当にスケールも音も大きい風景を思い浮かべる。私は、「富士の裾野」と聞くと、『曽我物語』などに見える、源頼朝のおこなった巻狩を、まずは連想する。だから「一斉に」の歌の「罠」には多数の動物を捕らえるための罠のイメージがあって、「芒が騒ぐ」のは、不穏な空気を察知した動物たちが騒ぎ始めたのも一因であろうと思われる。

しかし「銀色に」の歌では、今日の「わたし」が捕獲者としての「明日のわたし」(「明日」はアスではなくアシタと読みたい)に出会うかもしれないという不安感が詠まれている。ひとりの「わたし」が、今日の「わたし」と「明日のわたし」とに分裂しているのであって、ふたりの「わたし」が芒野において出会わんとしている状況を想像した内容の歌になっている。

これら二首に共通するのは、「芒」という語とともに「わたし」という語が用いられている点である。この歌集を読んでいくと、「一斉に」の歌のような破調表現が少なくないことと、「わたし」という語がよく用いられていることに気付く。「わたし」「私」「ワタシ」といった表記の相違は無視し、「わたし」という語をざっと数えてみたところ、類義語の「わたくし」と「われ」も含めて計四十例余りあった。そのなかには、

グサリ刺された私は死にました次ぎ会う時はクローンの〈ワタシ〉

レシートが受け取るわれの手より逸れそれさえ今日の否定形 わたしの

のごとく、一首中に「私」と「ワタシ」、「われ」と「わたし」が用いられているような作品も見られる。前者では、「銀色に」の歌と似て「わたし」の分裂が歌われ、後者では、手から逸れて舞い落ちてゆくレシートによって、現在の「わたし」の暮らし方が否定されたごとき印象を持ったことが歌われているのであろう。

もっとも、「わたし」が、たびたび出て来るからといって、この歌集の「わたし」は、声高に「わたしが」「わたしは」と自己を主張するような「わたし」ではない。こんな言い方が適当かどうかわからないが、おおよそは、主体的自己主張的「わたし」ではなく、受身的消極的「わたし」といえようか。しかも、もう一つ別の冷静な「わたし」(これを作者と呼んでも良い)の眼差しによって客観的に、あるいは批判的に眺められている「わたし」なのである。たとえば、

ショルダーからカード携帯電話けいたいまたカード飛び散った〈わたし〉冬の路上に

春風が怯むわたしをけしかける四の五の言わずにこの際乗れよ

渋滞の車乗り捨て歩き出すヒト科のわれを風が揶揄する

ペットボトル・瓶・缶・古着を袋詰め再生できるなら私を縛れ

帰属証明が揺れる真昼のビル街を歩くわたしの証明はない


などに見える「わたし」は、比喩として表現された一首目を含め、散らされたり、けしかけられたり、揶揄されたり、縛られたり、証明されなかったりする受身の「わたし」である。けっして、散らしたり、けしかけたり、揶揄したり、縛ったり、証明されることを拒んだりする「わたし」ではない。また、歌の読者に対して、自分の思いを押し付けようとする「わたし」でもない。

ちなみに二首目は、これを読んだだけでは、春風が、何に「乗れよ」とけしかけているのかわからないが、歌集で読めばバイクと解せる。また、五首目で「帰属証明」といわれているのは、首から吊り下げる型のネームプレートで、歌集では、この歌の二首前に、


名前札を首から吊るし放たれた鳥が行き交う昼のビル街

があって、そのことは明瞭である。作者は、それを、どの組織に帰属するかを証明する書と見なしている。

『銀河を渉る』を通読して、もっとも印象深いのは、夫の病気と死、そして死後を詠んだ一連であるが、そこにも、

今日はご機嫌悪そうで何を言っても生返事夫よ私を見よ!

意識なく目も開けられぬ夫よ聞こえますか私の声が…

黒枠の大きな写真は凛々しくて今の私には不釣り合い


などと、「わたし」という語が出て来る。そして、ここでも、夫の意識の片隅にしかないらしい「わたし」、自分の声が聞こえてほしいと願う「わたし」、凛々しい遺影の夫にふさわしくない「わたし」と、やはり、受身的消極的な人物像が詠まれている。正確には、そういった「わたし」を凝視する「わたし」の心が、それぞれの歌の主題になっている、というべきであろうか。

さて、前掲の「帰属証明」の歌は、歌集では巻末から数えて二首目に見える。この歌の 次、つまり巻末の歌は、

単身者無職のわれの存在証明朝の目覚ましベルが鳴る


であって、「われ」という形で、やはり「わたし」が出て来る。その「わたし」なる存在が、目覚ましのベルによって目を覚ましてこの世にあることを、もうひとりの「わたし」が確認しているのであろう。このように、この歌集は、「わたし」で始まって「わたし」で終わっているともいえる。

ここまで書いてきて、どうも、私は「わたし」にこだわり過ぎ、歌集の全体像を捉えていない感じがする。最後に、「わたし」の語は用いられていないけれど、こころに残った歌の中より四首だけあげ、感想を簡単に述べておこう。

身に纏う薄物一枚あればよし今夜は夢で銀河を渉る

地下街を流れる流れる人の足水底に繁茂する無数の若布

朝刊の死亡広告の記事数多名無しの蝉は木の根に落ちる

焼きたてのフランスパンをパリッと千切るこの一瞬の幸せの音


一首目は、歌集名の元になった作で、格調高い。銀河を渉るのは、中国渡来の伝説では織姫の方であったが、夢の中の場面とはいえ、それを髣髴させるものがある。

二首目は、人間の無数の足を若布に喩えたところがおもしろく、「流れる」の繰り返しも生きている。

三首目は、「死亡記事」ではなく「死亡広告」であることに大きな意味があろう。

四首目は、「パリッ」に都市名の「パリ」が掛けてある わけではなかろうが、そんなふうに思いたくなるような明るい気分と寂しさとが表裏一体になっている。

批評特集―覇王樹2022年4月号転載


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