見出し画像

【88】さいたまの漢文脈 詩楽起原3


先日「好音」の由来を紹介しましたが、もう一つ「詩楽起原 vol.3 さいたまの漢文脈」というリサーチをして、まとめました(^_^;)
日本文学1300年中、1200年は漢文が主流でした☆

ヘテロトピア的な「漢文脈」という視点で、さいたまの江戸後期〜明治初期を、岩槻、与野、浦和、大宮ごとに調べましたので、ぜひご覧の上、現地にもいってみてください^ ^

 

↓     ↓

 「江戸時代の文学全体のなかで漢詩というジャンルが占めた比重は、今日では想像もつかないほど大きかった…」
『江戸の詩壇ジャーナリズム-『五山堂詩話』の世界』揖斐 高、角川書店2001

 

「明治時代に至り、旧文化の破棄せられ、漢学の疎外せられた最中にあって、詩人 荐(しき)りに輩出し、名作 随(お)って現われ彬々(ひんぴん)として一時の盛を極めたのであるから、真に古今の一大奇現象といわねばならぬ・・・」
『明治詩話』木下彪、岩波文庫、2015

  

「近代日本という時空間は、文体にしても思考にしても、漢文脈に支えられた世界を基盤に成立すると同時に、そこからの離脱、あるいは、解体と組み換えによって、時代の生命を維持し続けようとしたのです。

 その継承と葛藤、摂取と排除のダイナミズムを明らかにすることで、たんに古い文体としてでもなく、また、現代に活かせる古典の知恵としてのみでもなく、【私たち】のことば全体に密接にかかわるものとして、漢文脈というものを捉えなおすことができる・・・」
『漢文脈と近代日本-もう一つのことばの世界』斎藤 希史、NHK出版、2007

 

それでは「さいたまの漢文脈」なるものを探してみましょう。

江戸、明治の記録、資料をさがすなら、合併前の旧4市の市史をさがすことになります。

それをみますと、享保の改革以降、とくに幕末の手前、文化文政の時代(1804〜1830)前後、漢詩漢文の記録が見られます。

 

1 岩槻

 



まずは、なんといっても、岩槻

城下町で藩校、遷喬館がありました。

それは教育者、児玉南柯(1746~1830)

の私塾がはじまり。岩槻図書館の目の前に整備されて残っています。

岩槻市史近世資料編1では、児玉南柯日記の巻があります。

 

そこには、ときおり、和歌や漢詩が読まれています。

和漢の教養がはっきされ、同一主題の漢詩と和歌も詠まれます


たとえば

寛政三年(1791)五月

 

逝鳥翻然入大空

流雲忽爾散長風

人生倚伏何須問

都是南柯一夢中

 

にさえ 我ままならぬ 世の中は

うつつを何と さだめはつべき

 

児玉南柯の由来になった「南柯

の夢」(はかない夢)

漢詩では、鳥や空や雲、風を描写しますが、和歌では内面を中心です。

 

2 与野

 与野市史 中・近世史料編が参考になります

児玉が活躍したのと同時期に、与野でも、「与野聖人」と呼ばれるような教育者がいました。

西沢廣野(1743〜1821)です。

友人の俳人、鈴木荘丹(1732~1815)も文化人で、寛政十三年には、「与野八景句集」を仲間と作ります。ほとんどの人が五七五ですが、西沢は漢詩で書いています。

 

ちなみ与野八景は①落合の桜花、②筑越の行人、③中里の照月、④越土の夕雨、⑤高沼の稲舟、⑥筑波の晴峰、⑦大戸の丘雪、⑧大宮の鳴鐘。

 

西沢は、⑤高沼の稲舟の中で 「行徳塩釜」と題して

 

十里長堤接海衛

平沙若鏡映朝暉

熬波塩釜積為雪

誰謂未如柳絮飛

 

と詠みました。

 

さて、「八景」が出てきましたが、以前、ハムハウスの隣、市立博物館では、

「さいたま八景」という展示がありました。

中国の「瀟湘八景」にちなんで、日本でも「金沢八景」が有名ですが、江戸時代ころにも各地に、「八景」を見立てることがあったようです。




南与野と中浦和の間では、「日向十景」というものがありました。起伏ある大地、中山道や赤山道が交差し、沼や川で耕作と水運が発達し、様々な眺望を生んでいたようです。

 

これについては、埼玉大学の先生たちが、「地域芸術祭」とからめて、風景変容の視点から詳しく調べています。

 

「…「芸術家、写真家、小説家 は場所の本質を体現した一つの小さな特徴に場所のアイデンティテ ィを要約する。」ここでいう要約とは興味深い表現であり、本稿の眺望解釈の文脈から言い換えれば、「地形や自然の骨格、人々の暮らす まちや生業、過去から現在への時の流れをパノラマのように一望すること」、となるだろう。それは、妻有のアートイベントでアートの設置場所が非常に巧みに選ばれていたことの秘訣でもあり、日向十景の石碑が表している…」

(「近世さいたま市西部の景観資料「日向十景の碑」について : 変貌する風景に見る地域のアイデンティティと石碑の意義についての考察」薄井 俊二

、深堀 清隆、埼玉大学紀要2013 ※検索してオンラインで読めます)


実際に、日向の集会所には、天保12年(1841)の碑文が残され、漢文と十景ごとの和歌が記されています。


崇巒危峰登者皆知逞臨眺焉

不必煩石工而勒其臨眺之所逮也

若夫平原曠野則人狃其路之坦

而不知其地之漸隆高

乃雖臨眺或不譲

崇巒危峰者過焉蔑如也

宜勒其臨眺之所逮

以為地顯其美為人導其勝

此碑之所不可以已也

 

足立郡日向邑在江戸西北七里許茫茫曠

原古所稱武蔵野其地也

而甲信以東豆相以北數州名山歴歴呈眉睫間

其臨眺幾出乎崇巒危峰之右

所謂宜顯美導勝之地非耶

邑人良直慮其勝之煙没

而過者之蔑如也

為撰其十勝以勒石

嘱余記其梗概天保十二年

 

いくつか和歌の例を挙げれば

「富士雪」では

 

有明の月と見るまで久かたの雲ま匂う不二のしら雪

 

「荒川帰帆」では

 

あら川の流れに真帆かけてとゆいと遊び帰る百舟

 

 

3浦和

少し幕末になりますが、浦和、今の緑区大間木には、高野隆仙(1810〜59)がいました。医師で、師匠の高野長英をシーボルト事件の時に、かくまったことで知られます。その家の離座敷は、文化交流拠点で、句会などが開かれていたようです。いまも茅葺の屋敷が、新興住宅街のただ中に残っています

 

『浦和市史』近世資料編Ⅳを見ますと、「文雅聞書」という医学的なことを論じた漢詩まじりの文章が掲載されています。最後に病中の友人におくる賦として

 

木菫霜晴月半稜

推慮揮翰硯池水

怯寒炉下吹茶鼎

清暁吟詩待日昇

寂々園中閉戸居

形容長夜鬢毛疎

敢扉文友相辱処・・・

 

さて、近代、浦和に県庁が置かれ、

文化の中心地となります。



二代目県令の白根多助時代、県庁には
、江戸の昌平黌を頂点とした、各地の藩校、私塾で学んだ、多士済々が集います。

 

メディアの発達で、江戸以上に漢詩が盛んになりました。


浦和でも県庁近くに


「浦和」の「うら」を「麗」と書いて、「麗和吟社」なる詩の結社が生まれ、県の公園第一号、浦和偕楽公園(現、調公園)が交流の場となっていたようです。

麗和は今も幼稚園の名前で残ってますね。

 

この当時の様子は、埼玉県文書館学芸員が「第二代埼玉県令白根多助をめぐる漢学ネットワーク」という論文にまとめています。


明治12年には「麗和吟社」は「麗和新誌」を発行。詩や和歌の二部立でした。

 

たとえば文政八年生まれ、埼玉県出身、庶務課の芳川西浦(当時55歳)は、

 

渓上春風岸帽紗

数枝寒玉認詔華

東郊不肯随群屐

来見山園幽処花

 

同じく庶務課、安政5年生まれ、埼玉県人の山田桐雨(22歳)は

菅原道真を思って、

 

清香満地絶埃塵

茅屋柴門別占春

日暖窓間兼鶴睡

月明林下興梅親

風情万古蹤難遠

妙句千秋伝尚新

高潔従来誰得似

我邦菅氏或同倫

 

と。

 

また見逃せないのは、漢学者と知られた相模出身の溝口桂巌が明治18年から埼玉県に入庁。

25年に『桂巌詩鈔 麗和集』を刊行

このうち「麗和竹枝三十首」は、県庁勤めの様子がうかがえます。

 

県庁門内屋連甍

幽塏尤宜寄宦情

自与市街風致異

浅斟低唱漏琴声

 

とか

 

議堂整粛別乾坤

 坐定無端衆口喧

平素交朋讎敵似

 甲非乙是孰公論

 

などと議論の様子、

いまも、調神社うらの調公園にいくと、西南戦争に関するものなど、いくつか漢文の碑文が残っています。

 

4 大宮


そしてハムハウスそばの大宮公園にも、漢文の碑文がいくつか残っています。


 氷川神社本殿そばには、 先ほど述べた、二代目県令の白根多助撰の「重修氷川神祠碑記」、またこの白根を追悼する「故県令行状・埼玉県令白根君碑」はNACK5スタジオ側になどがあります。

ここで、特に詩に注目し、やはり本殿そばにある嘉永三年(1850)の「挿花碑銘併序」からご紹介。

 

『大宮市史』第三巻中によると、現在の見沼区片柳エリアの守屋巌松斎が、華道に熱中し、草木の供養としての花塚をたてたとのこと。文章は忍藩の藩校進修館教授の芳川波山。端正な漢文の序文につづき、以下のような詩


風葩雨芯 勅在移時

人工之妙 能補天機

花之無情 爰知我思

強割其受 懇葬西施

芳魂難招 蜂愁蝶悲

 

ほかにも、市内あちこちに、漢文の碑文が見つかります。

さいたまの漢文脈ぜひ、現代と接続してみてください

 

※【おまけ れいわ考】

麗和が出てきたので、「令和」も連想します。

 

万葉集「梅花歌三十二首幷序」

天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴会也。于時、初春【令】月、気淑風【和】、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香

が典拠とされますが、

この文面は、中国後漢、2世紀の張衡の「帰田賦」にさかのぼれます。その冒頭、

遊都邑以永久、無明略以佐時、徒臨川以羨魚、俟河清乎未期、感蔡子之慷慨、從唐生以決疑、諒天道之微昧、追漁父以同嬉、超埃塵以遐逝、與世事乎長辭、於是仲春【令】月、時【和】氣清・・・

 

さらに書道で有名な、4世紀の王羲之(303年 - 361年)の「蘭亭序」にも

永和九年、嵗在癸丑、暮春之初、會于會稽山隂之蘭亭、脩稧事也・・・

・・・雖無絲竹管弦之盛、一觴一詠、亦足以暢敘幽情、是日也、天朗氣【清】、恵風【和】暢・・・

 

これについては『万葉集の散文学―新元号「令和」の間テクスト性』(東原伸明/ローレン・ウォーラー/ヨース・ジョエル/高西成介 編著、武蔵野書院、2021年)がいちばん面白いと思います。

 

2023年6月 好音@大宮ハムハウス @haoyin_books


好音本棚については
こちらでまとめています


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?