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名前のある家事なら機械にさせよ

メイクというのは非常に、非情に工程が多い。

まず肌を更地にする。それから土台作りがあり、基礎工事があり、
ようやっと装飾に着手できるのだ。

だがこれらは基本的に、職人の手作業によってしか成し得ない。
手と筆はオートメーション化されていない。今のところ。

名前のない家事、という言葉がある。
シンクの残飯受けに網をかけるやつだとか、干し終わったハンガーをしまう作業だとか、「足生えてます?」と言いたくなるような、リモコン類その他もろもろの所在を探す作業だとか。

水回り?洗濯?拭き掃除?
てやんでいべらぼうめ。
あたまっから足の先まで、隅々くまなく洗ってから出直してきやがれぃ。
おいおい、片付けとか言ってくれるなよ。主語のデカさには気をつけな。

とまぁ、つまりはめんどくさい。

とはいえ、ロケットランチャーでこの世を消し去ってやろうかというほど絶望しているかというと、そうでもない。

我が家には、食洗機とルンバがあるのだ。
脱線するけど、自動掃除機ってもうルンバって言うわよね。
先鋒の商品名が名称として定着する事例よね。むかしラップはサランラップって必ず言ってたみたいに。あれ、これうちだけ?

話をもどそう。食洗機とルンバ。7文字である。
この7文字だけで、どれだけの人類が救われるというのか。
伊藤計劃の『虐殺器官』で用いられた「虐殺の文法」とは対をなす概念である。

これらがあることでどのような利点があるのか。
自明にて略。

コンシーラーでダウンタイムと称する顔の赤みを消しながら、そのようなことを考えた。家電は時間を短縮するだけでなく、精度も高い。手洗いではあんなにふんわりしたタオルにならないし、グラスもピカピカにならない。ソファの下に埃がない状態?ひれ伏すしかない。

人の営みは、清と濁の繰り返しである。
ただ濁のほうがなんか強めっぽいね、という。
人の手じゃちょっと勝てないから、機械の力を借りる。

メイクの腕だけ上達していく自宅職人より。

息子がグレて「こんな家、出てってやるよババァ」と言ったあと、「何言ってもいいが大学にだけは行っておけ」と送り出し、旅立つその日に「これ持っていけ」と渡します。