真ん中の宙ぶらりん、中肉中背の。
読んでよかったなぁとか、やっと読めたとか読後にそんな感想を持って満足することが多い。知的好奇心を満足させたら、また違う本に手を伸ばす。
何かを読んで、何かがふつふつと湧いてきて、書き留めておきたいと思うのは少ない。それたけに、その本が自分にとって刺さったということだろう。
『それでも女をやっていく』を読んで、納得したり共感したり、内容との違いから自己理解が進んだりした。
『神風怪盗ジャンヌ』や『桜蘭高校ホストクラブ』など、共有するコンテンツを同じ時期に摂取していた人のフェミニズムの視点から読み方に、そうだよなぁと頷いた。
種村有菜のファンだったのに、コミックスは年を重ねて手放してしまって、もう何年も手にとって読んでいない。なのに、本の中であのシーンこのシーンが言及されると、不思議と頭のどこからか浮かんでくる。
『イオン』『時空異邦人KYOKO』『満月を探して』何とか読もうと頑張ってBOOK・OFFで探した。
かえって、『桜蘭高校ホストクラブ』は漫画はさることながら、ボンズ制作のアニメが好きで、深夜アニメの放送を心待ちに録画していた。野球のシーズンで、放送が延長されて録画時間がずれてしまってほとんどアニメが撮れていなかったときは絶望した。
種村有菜の作品は追わないけれど、今でも『桜蘭高校ホストクラブ』のアニメはネットフリックスで観るのはなぜなのだろうと思う。
恋愛の刷り込みはあらゆるコンテンツからされていて、なのにそれを明示する言葉もそれがどういう意味があるのかも知らなかった。
恋愛がいいもの、しなくてはならないものとインプットされていたように思う。故に、恋愛に重きを置かない(示唆されはすれど成就が目的ではない)ものに惹かれるのかもしれない。フルーツバスケット、ミルモでポン、学園アリスが好きだった。
「腐女子」という枠組みに救われた人も多いだろうが、自分はその枠組みにさえも入れず、かといってメジャーなカルチャー(ファッションなり音楽なり)に共感することもできなかった。
「腐女子」との出会いは中学生からで、友達に呼び出されてこっそり見せられたのがBLのライトノベルだった。
赤裸々な性描写の、しかも男性同士の絵に、驚くと同時に不快感を覚えた。嬉しそうにかたる友達の手前、愛想笑いをしつつも、そのライトノベルをちゃんと読むことはなかった。
BLというものがあることを当時の私が知っていたかどうかはわからない。そういうジャンルと知らずに『今日からマ王!』は見ていた気もする。しかし、マ王は匂わせがあるだけで、なにか特別なシーンがあるわけじゃなかった。
そういうものが盛り上がるときだから、同級生にはコスプレをしたり、コミックマーケットに行く子もいたりしたが、積極的にコミットするのは経済的にも難しく話を聞いているだけだった。
整ったインターネット環境もなければ、自身の携帯もなく、そういったコミュニケーションを通して形成される認識についていくだけでも精一杯だった。無理をして、好きでもないコンテンツを追いかけるのは窮屈で、こっそり一人カウンセラー室を訪れたこともあった。
一緒にいて話を合わせて過ごして宙ぶらりんに自分の世界に没頭する振る舞いは、自分が真ん中っ子というのもあるのだろう。
宙ぶらりんにどっちつかずの振る舞いを身につけて、仲間はずれにされたり、したりしながら、喧嘩したり、遊んだりした。
怒りも喜びも寂しさも、そういうなかで身につけたように思う。ことさら誰かを引き立てられることはなくても、男だから、女だからと引かれる線引きにひどく敏感になった。
見られることには敏感で、常に長男からのジャッチが降り注いだ。自分のことは棚に上げて、振り下ろされる価値観に窮屈になる。幼くてみっともないとこき下ろされたキティちゃんのグッズを、私はそういうものかと手放して、中学生でグッズを集める子がいて驚いた。
家庭内の価値観と周囲の流行り廃りを押し付けられる息苦しさに、反抗期の荒々しさとなって意味もわからず激昂していたように思う。
そのような押し付けに、抵抗しつつも一部を受け取ってしまうくらいには考えが足りない素直さもあって、普通であることに憧れた。
絵を描いてみたくて、美術部に入ろうとしたが、結局そこでも「腐女子」の洗礼にあって、性的なコンテンツの話から誰が受けで誰が攻めがいいかと嬉々として初対面で語る、コミュニティの濃密さに溶け込むことができずに入部することから逃げた。
次女は、そのコミュニティにするりと溶け込んで「腐女子」の道を進んでいった。コミケの参加からコスプレまで。彼女の多くの同人誌の山を、私は手に取ることができたのはわずかだった。『同級生』を読むことが出来たのは良かった。
好きなコミュニティでも、その濃密なコンテキストが浮かび上がってくると、長い間属することは難しかった。それは真ん中の、どっちつかずの、つかず離れず心地よいところの場所探しが見つからない時に起こる。
大学のサークル、仕事の仲間、趣味のグループでも、活動の枠を超えて行けば行くほど、付かず離れずの距離感が保てなくなってと一歩一歩後退した。
どっぷりと何かにハマることも、何かに依存することもできない自分は、やはり「推し」を持たない。何かを強烈に推すほどのこだわりがなく、好きなものがあっても一部よりは全体の中の一つとして注目してしまう。
例えば、ちいかわのうさぎは好きだけど、単体として独立したうさぎが好きというわけではない。比較対象があるからこそ、うさぎの個性は際立っていると思うから好きなのだ。
構われることもなかった分、他人を構うこともできず、人に構われ育ってきた人に、愛されれば愛されるほどに一人になりなくなる。
かと言って一人で暮らしたことのない自分が、完全に一人で暮らしていけるという気もしない。いつでも人の気配がうっすら聞こえる煩わしさに、体が慣れてしまっている。
自分がいた頃にはなかった家族ラインの開設、久しくいってなかった家族旅行の再開。宙ぶらりんの存在が希薄になればなるほど、家族の結束は強まった。
それでも名前は変えたくなかった。はっきりとさせたくない思いは空気として新しい家の中にも漂っていて、そろそろ半年も経つのに表札はまだ、養生テープにマジックで書いた名前が2つ。
どっちにもなりきれないまま、それでも時は進んで、自分はいつか母になるかどうかを決断する。母の初産の歳を気にして、そこまでならキャリアを続けていけるのではないかと考える。でもその先は? キャリアを築きつつ第二子も産めるのかどうか。複雑な兄妹への気持ちに、果たして子を複数儲ける必要があるのかどうか。
エッセイに出てくる、実家のような鍼灸院が、まるでフィクションのように感じられた。こんな距離感で接してくれる、そんな場所があるのか?
友人たちとの濃密な関係を、もう自分は持つこともないだろう。その掘り下げても掘り下げても答えが出ないような言葉の沼をどれだけぶちまけているのかは文章に染み出ている。
「腐女子」でもない、同性や異性に対する執着が少ない自分でも、エッセイとして親しみを持って、うじうじと読むことは出来たのは、それが等身大の、生々しい女の書いた文章だったからだ。
ひときわ今よりも厳しい価値観を生き抜いてものを成したフェミニズムの大家の作品を読めば、自分は教えて貰う立場で、まだまだ何も知らないひょっこのままだ。
その体験と比較すると今回のはそばでまさに語られているような、ねっとりとした感情がついてまわって、口に出してしまわないと振り払えない読後感になる。
読んだというよりは聞いたというのが正しくて、オーディオブックで聞いたことが効果として大きいのかもしれない。文章と音声で聞くのでは、違う受け取り方になる気がする。
終わり。
ポッドキャストの回を聞くと、より理解が深まったな。
私もロンドンに行きたい。
本を読んでから、仕事の回を聞いた。べっとりした雰囲気の口調で聞いていたせいだろうか。なんて言うかソフトな語り口で安心した。
この回だけじゃないけど、少しずつの自己開示っていいなと思ってる。なれるかなれないかは別にして、やって損はないから。
良かったら応援よろしくお願いします。たくさん書くと思います。