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評価と罰

人を殺したとして、適切な刑罰がどれくらいか決めるのは誰か。
人を裁くのは人だけど、誰が正しい裁量を持ってるのか。


見る人によって裁量は変わる______


これって価値もそうじゃないだろうか?
カブトムシやクワガタは、女子たちにとって価値は無いことが多いと思う。でも男子たちにとっては価値がある。

同じ対象モノでも、見る人によって評価が変わる。
 芸能人格付けチェックという番組に《本当に良いもの》が出てくるんだけど、それが分かる人と分からない人がいる。感覚が鋭い人は違いが分かるが、鈍い人はどっちも同じに感じる。
その《質が良い》という定義も値段が高い・・・・・という基準のみなので、値段が高いから上質というのも、どこかの誰かが決めたものだし。値段が高いからといって、全ての人から高評価を得られるわけじゃない。やはり評価は人によって違う。
トリュフとかフォアグラは、値段は高いけど美味しくはない。珍味。
珍しいのは事実なんだろうけど、価値としてみなされるかは見る人による。


天才が言う事を凡人は理解できないとはよく言ったものだが、これも価値を理解出来ないということだ。評価が見る人によって変わっているということ。
いくら真理を説いたとしても、レベルが高すぎて大衆は理解してくれないというのは天才あるあるらしい。
「なんで相対性理論分かってくれないの?」
「コレの違いも見抜けないんだ」

孤独だ。

Winny事件とか典型だと思うし、いっつも名前忘れちゃうんだけど

この人。
ジョナサン…なんたら。

理解者が多数いたなら、この人の人生は変わっていた。
優秀ならいいってものじゃない。
いくら知能が高くても、理解されないと意味がない。評価されないと意味がない。
見る人によって評価というのはびっくりするほど違う。
ゴッホとか、諫山創もそうらしい。ジャンプ編集者の評価が正しかったのか、マガジン編集者の評価が正しかったのか…。進撃の巨人は結果的に大ヒットをかましたので、マガジン編集者が結果論で正しかったのだろうが、ゴッホの適切な評価は生前なのか、死後なのか。

死後評価されたり、あるコミュニティでは酷評されるが、別のコミュニティでは評価されたりする。
その人のスタンスや、作品が変わったわけじゃないのに。

朝倉未来とかはそんな感じがする。ヤンキーなんて街の厄介者でしかないのに、格闘技界では評価される。
そして別にやってる事も変わってるわけじゃない。
殴り合い。だけど評価が違う。

裁きもそう。
見る人によって罰の量が変わる。
真面目な人や正義感が強い人、共感力が高い人は、殺人に対して極刑にする率が高くなる。
対して殺人を悪いことだと思ってない人間は、そんなに刑を重くしない。

真面目な人間がくだすジャッジは倫理に基づいたものであるから正しいのか。真面目といっても視野狭窄に陥りやすい人間ではないのか。殺人を悪いことだと思わない人間は間違ってるのか。物事をフラットに見て、柔軟性がある人間ではないのか。

というか最初に書いたかもしれないが、人ひとり殺した際の適切な刑期というのは何年なのか。

誰が決めるのか。
決める人は正しいのか。
決める人を正しいとする人は正しいのか。
正しいとする人を正しいと判断する人は正しいのか…と、合せ鏡みたいに無限展開していく。
これは間違ってるバージョンでも同じ。

人が人のジャッジをすることなんて、本来はおこがましいことだ。誰も正しいことを証明できないし、間違っていることも証明できないから。
だから多数決しか正しいことを決める方法がないんだ。
みんな平等なら、間違っていることも正しいことも平等だ。皆正しくて、皆間違っている。


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