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福音史家ヨハネは鷲の象徴?

聖書の中には鷲についての描写が数多くあります。飛行力が非常に高く、鋭い視力を持っているため、様々な意味で天のシンボルとされてきました。

その中でも注目したいのがこちら。

「鷲は鳥の中で唯一太陽を直視できると考えられていたため、神の神秘を誰よりも見つめていたヨハネの象徴とされました。」 
([Decode Art] 映画「π」:「数学」)

「古き時代、鷲は太陽を直視できる唯一の鳥と考えられていたため、イエスの奇跡を最も近くで見ていたヨハネの象徴となりました。」
([ Symbolizm ] 象徴の見方)

「正典となっている福音書は4つ。マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書。この四人は特別な象徴とも結びついております。幻視者の智天使を覚えておりますか?
人間(天使)がマタイ、獅子がマルコ、牡牛がルカ、そして鷲がヨハネです。」
([ Decode : Art ] 聖マタイの召命)

霜月やよいさん

太陽を直視する事は、真理を見つめることですね。
真理とは?「神の神秘」。これは色んな捉え方が出来ると思います。「イエスの奇蹟」ももちろん「神の神秘」ですが、ヨハネの福音書は、他にもたくさんの神の秘密を教えている書です。

“(鷲は)テトラモルフでは、福音者ヨハネをさし、天へ舞い上がって不滅の真理の光を鋭く凝視する様を表す”

(イメージシンボル事典)

ヨハネは、ロゴス(言葉)の有名な聖句から始まり、他の3つの(共観)福音書よりも「高い」キリスト論で多くのことを説明しています。

鷲の中でも、一番高く飛んだ鷲は「マダラハゲワシ」のようですが、記録は高度11278m。飛行機より上です。全ての種類の鷲がそこまでではないと思いますが、それだけ太陽に近づけば、見える真理も違ってくるでしょうし、全体像も掴めるでしょうね。

「世界でいちばん素敵な鳥の教室」より

それは何を意味するでしょうか?
他の3つが、イエスに何が起こったかを書いた福音書であるならば、ヨハネの福音書は、イエスとは何者かを書いた福音書と言えます。同じ事を書いていても描き方が全然違います。

「この福音書は『始めから終わりまで、イエスが何であり、どういう方であり、世と人間にとって何を意味する存在であるのかという問ーいわゆるキリスト論ーにほとんどすべての関心を集中している』

この意味で著者がヨハネ福音書を「金太郎飴」になぞらえた比喩は興味深い。つまり、この福音書のどこを切っても同じ内容に出くわす。イエスはどういう方であるかという同じ問題が常に問われている。だから、福音書という文学様式の順序に従って、先在者ロゴスの受肉に始まり、二度の過越祭の間に伝道活動を展開し、十字架の上で死に、しかも復活して昇天するイエスの道のりのどの場面においても、ヨハネのキリストは、その道のり始めから終りまでを内包する全体的立場から描かれている。」

https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonnoshingaku1962/1986/25/1986_25_78/_pdf

聖書学者の小林信雄さんの記事ですが、分かりやすい説明だと思います。このように「イエスとはどういう方か」を常に問う書。

そしてこの書では、「見る」という言葉を独特な意味合いを持って用いています。「見る」ことは信仰に繋がり、ヨハネ福音書が「見る」と言う時、神の栄光を「見る」ことに繋がって行きます。

二つ目に、ヨハネの福音書はとても愛を強調しています。太陽=熱と見た時、それを目撃していたヨハネが愛を説く人、「愛の使徒」として有名になったのも納得です。

“ヨハネが霊的修行の奥伝の受け手に選ばれたのも、彼が常にイエスの胸近くにいて、神の愛にもっとも深く触れていたためと思われます。『ヨハネの福音書』はキリストの「愛」の教えの具体化といえるでしょう”

黙示録の解読(エドガー・ケイシー)あとがき

この2点をWikipediaがこんな風にまとめてくれています。

「ヨハネはイエスの父なる神とのかかわりについて重点的に説明している。ヨハネは他の3つの福音書よりも鮮明に神の子たるイエスの姿をうかびあがらせている。ヨハネの書くイエスの姿は父の愛する一人子であり、神の子そのものである。また、キリストをあがない主として書く、あるいは神の霊である聖霊を助け主として書く、キリスト教の特徴として愛を前面に押し出すなどの諸点によってキリスト教に大きな影響を与えることになる。」

少しくどくなりましたが、これがヨハネの福音書全体のイメージです。
しかし、これでは真理を読み解くには、福音書を全部読むしかありません。
それでももちろん良いのですが、もう少し効率的な方法があります。

ヨハネの福音書の構成を見てみましょう。

ヨハネの福音書は、4つの正規の福音書の4番目です。これには、イエスのミニストリーの非常に概略的な説明が含まれており、ラザロの復活で最高潮に達する7つの「兆候」(イエスの復活を予見)と7つの「私は」談話が含まれています。トマスが復活したイエスを「私の主であり、私の神」と宣言したことで最高潮に達します。福音の締めくくりの節は、「イエスがキリストであり、神の子であると信じ、あなたが彼の名において命を持つことができると信じること」という目的を定めています。

(Wikipedia)

今日はここに出てくる、7つの「兆候」と7つの「私は」談話に触れたいと思います。

「7つのしるし」とは…

① 水をぶどう酒に変えた奇蹟(2:1〜11)
②役人の息子のいやし (4:43〜54)
③38年間病気だった人のいやし(5:1〜18)
④五千人の給食の奇蹟(6:1〜15)
⑤ガリラヤ湖上の歩行の奇蹟(6:16〜21)
⑥生まれつきの盲人のいやし(9:1〜4)
⑦ラザロの生き返りの奇蹟(11:1〜45)

7つの「エゴー・エイミー」

①「わたしは命のパンです」(6:35, 41, 48, 51)
②「わたしは世の光です」(8:12)
③「わたしは羊の門です」(10:7,9)
④「わたしは良き羊飼いです」(10:11,14)
⑤「わたしはよみがえりです、命です」(11:25)
⑥「わたしは道であり、真理であり、命なのです」(14:6)
⑦「わたしはまことのぶどうの木です」(15:1,5)

「エゴー・エイミー」は「わたしは〜です」という自己宣言を表わします。まさに神の神秘、神性を明らかにしていると言えるでしょう。そしてこのような「エゴー・エイミー」は、ヨハネの黙示録など他のヨハネ文学にも共通する点です。

「7つのしるし」

イエスは多くの奇蹟を行なわれましたが、その中からヨハネは七つを選び、それらを「しるし」としています。
というより、「しるしの書」というのが元々あって、それをイエス神話にアレンジしたものです。まずはその部分を見てみましょう。

The Wedding Feast at Cana, 1563, Paolo Veronese, Musée du Louvre, Paris

最初の「しるし」は、カナでの婚礼の時に行なわれました。その時イエスはこう仰いました。

「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現されたのです。」

(ヨハネ2:11・新改訳)

こんな風に「しるし」は書かれているので、分かりやすいです。
「しるし」とは何を意味しますか?「イエスの栄光が現された」と書かれています。つまり光=真理ですね。この絵画のイエスも後ろに後光が指しています。
ではどんな真理をヨハネは真っ直ぐに見つめて記録したのでしょうか?

ヨハネの福音書 2章1~11節

1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、──しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた──彼は、花婿を呼んで、
10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

ちなみに、先日のやよいさんの記事を読んだ時、私はこのnoteを書いていたので、つい唸ってしまいました。

熱心党のシモンなんて、12使徒なのに、聖書中にほとんど記述がありません。シモン・ペテロと区別するために「カナナイ人シモン」と書かれていると単純に認識していましたが、その出身地に注目して、智慧を読み取るとは、さすが👀
熱心党のシモンとバルトロマイという、カナ出身者二人は、まさに両端にふさわしい二人ですね。

脱線してしまいました。
その二人の出身地カナで起きた事。マンリー先生の本を読んでる皆さんはお分かりだと思いますが、一番最初の「カナの婚礼」のしるしは、バッカスと同じです。

「(バッコス)は12月25日に処女から生まれ、人類のために数々の大きな奇跡を行なった。特に彼は水を葡萄酒に変え、驢馬に乗って凱旋的な行進を行なった。…バッコスも太陽エネルギーの一形態である。」

(古代の密儀)
ニコラ・プッサン、パンの任期の前にバッカナリアンのお祭り騒ぎ 1632年-1633年

もう少し詳しく知りたいですね。ディオニソスもワインの神です。

「比較神話でイエスを研究し、水がワインに変わるという物語は、古代ギリシャの神ディオニュソスについて語られた多くの物語に似ています。ディオニュソスは、とりわけ、寺院の中に一晩閉じ込められた空の樽をワインで満たすと言われていました。」

(Wikipedia「カナでの結婚式」)

そして、エジプトの方が原型です。ここではオシリスと繋がってますが、ホルスとも繋がってます。

"プルタルコスによれば、「最初にぶどう酒を飲み」、ぶどうの木について人類に教えたオシリスが「祭りのぶどう酒の主」と呼ばれ、ヨハネによる福音書のカナの婚宴を想起させている。ヨハネによる福音書2:3-9の水からワインへの奇跡について、ノイマン博士は、オシリスはワインの神であったと指摘し、1月6日(キリストの数回ある誕生日のひとつであり、イエスが水をワインに変えたことを記念する「公現祭」でもあるとされる)は、「オシリスによって水からワインに変えられた記念日でもある」と述べている。

ウニスのピラミッド・テキストにも、関連する記述がある: 「この最後の一節は、ギリシャ神話のディオニュソスにも見られる、水をワインに変える奇跡の背後にある本当の意味を示している。つまり、太陽の光によってブドウの木が熟し、ブドウ果汁が発酵すること。この点で、水をワインに変える神々は伝統的に太陽神であり、イエス・キリストの神話的性格も同様であると我々は主張する"。

「ホルスとイエスの繋がり」

「水をワインに変える」ことは、太陽の光合成で水/雨を変換してブドウを栽培し、ワインに変えるという太陽神話に基づいています。葡萄の果実が圧し潰され、死滅するが、発酵という行程を経てワインに生まれ変わることと、死と再生の密儀は重ねられてきました。

ぶどう踏み、楽しそうですよね。ちょっとやりたい😆

このように、古代エジプトではオシリスやホルス、古代ギリシャではディオニソス、古代ローマではバッカスから、常に葡萄酒は神からの授かりものと見なされてきました。キリスト神話も同じです。

葡萄と言えば、エゴー・エイミーの7番目に、「わたしはまことのぶどうの木です」というのがありました。先ほどのバッカス達は、イエス同様ぶどうの木であり、葡萄酒はそれぞれの血を表しました。キリスト神話ではイエスの血を象徴する葡萄酒。それがイエスの最後の晩餐に由来するミサ、パンと葡萄酒がイエスの体と血に変わること(聖体変化)と、それを信徒が分かち合うこと(聖体拝領)に繋がっていきます。

ここからは私の推測ですが、旧約聖書は新約聖書の予型と考えると、旧約聖書とも繋がると思います。聖書の中に葡萄の話は多いですし…

例えば、創世記49:11や申命記32:14では、「ぶどう​の​血​」という表現があります。ここまで読んでくださった方には違和感ないと思いますが、普通に読んだら違和感ないですか?Google翻訳ならいざ知らず、市販の聖書で、ですよ。もちろんその翻訳がおかしいわけではなく、KJVでも「pure blood of the grape」です。「ぶどうの血」です。昔は、葡萄酒でも葡萄ジュースでも葡萄果汁でも何でもいいけど、他に言いようはないのかと思ったものです。でもこれ絶対繋がってますよね。ということは、“モーセ神話”も調べてみないといけないな〜と思います。

長くなってきたので、この辺で終わりたいと思います。一つだけでしたが、少し調べると、ヨハネが見つめていた真理の光の正体が分かりますね。古代から繰り返される密儀でした。

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