福音史家ヨハネは鷲の象徴?
聖書の中には鷲についての描写が数多くあります。飛行力が非常に高く、鋭い視力を持っているため、様々な意味で天のシンボルとされてきました。
その中でも注目したいのがこちら。
太陽を直視する事は、真理を見つめることですね。
真理とは?「神の神秘」。これは色んな捉え方が出来ると思います。「イエスの奇蹟」ももちろん「神の神秘」ですが、ヨハネの福音書は、他にもたくさんの神の秘密を教えている書です。
ヨハネは、ロゴス(言葉)の有名な聖句から始まり、他の3つの(共観)福音書よりも「高い」キリスト論で多くのことを説明しています。
鷲の中でも、一番高く飛んだ鷲は「マダラハゲワシ」のようですが、記録は高度11278m。飛行機より上です。全ての種類の鷲がそこまでではないと思いますが、それだけ太陽に近づけば、見える真理も違ってくるでしょうし、全体像も掴めるでしょうね。
それは何を意味するでしょうか?
他の3つが、イエスに何が起こったかを書いた福音書であるならば、ヨハネの福音書は、イエスとは何者かを書いた福音書と言えます。同じ事を書いていても描き方が全然違います。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonnoshingaku1962/1986/25/1986_25_78/_pdf
聖書学者の小林信雄さんの記事ですが、分かりやすい説明だと思います。このように「イエスとはどういう方か」を常に問う書。
そしてこの書では、「見る」という言葉を独特な意味合いを持って用いています。「見る」ことは信仰に繋がり、ヨハネ福音書が「見る」と言う時、神の栄光を「見る」ことに繋がって行きます。
二つ目に、ヨハネの福音書はとても愛を強調しています。太陽=熱と見た時、それを目撃していたヨハネが愛を説く人、「愛の使徒」として有名になったのも納得です。
この2点をWikipediaがこんな風にまとめてくれています。
少しくどくなりましたが、これがヨハネの福音書全体のイメージです。
しかし、これでは真理を読み解くには、福音書を全部読むしかありません。
それでももちろん良いのですが、もう少し効率的な方法があります。
ヨハネの福音書の構成を見てみましょう。
今日はここに出てくる、7つの「兆候」と7つの「私は」談話に触れたいと思います。
「7つのしるし」とは…
① 水をぶどう酒に変えた奇蹟(2:1〜11)
②役人の息子のいやし (4:43〜54)
③38年間病気だった人のいやし(5:1〜18)
④五千人の給食の奇蹟(6:1〜15)
⑤ガリラヤ湖上の歩行の奇蹟(6:16〜21)
⑥生まれつきの盲人のいやし(9:1〜4)
⑦ラザロの生き返りの奇蹟(11:1〜45)
7つの「エゴー・エイミー」
①「わたしは命のパンです」(6:35, 41, 48, 51)
②「わたしは世の光です」(8:12)
③「わたしは羊の門です」(10:7,9)
④「わたしは良き羊飼いです」(10:11,14)
⑤「わたしはよみがえりです、命です」(11:25)
⑥「わたしは道であり、真理であり、命なのです」(14:6)
⑦「わたしはまことのぶどうの木です」(15:1,5)
「エゴー・エイミー」は「わたしは〜です」という自己宣言を表わします。まさに神の神秘、神性を明らかにしていると言えるでしょう。そしてこのような「エゴー・エイミー」は、ヨハネの黙示録など他のヨハネ文学にも共通する点です。
「7つのしるし」
イエスは多くの奇蹟を行なわれましたが、その中からヨハネは七つを選び、それらを「しるし」としています。
というより、「しるしの書」というのが元々あって、それをイエス神話にアレンジしたものです。まずはその部分を見てみましょう。
最初の「しるし」は、カナでの婚礼の時に行なわれました。その時イエスはこう仰いました。
こんな風に「しるし」は書かれているので、分かりやすいです。
「しるし」とは何を意味しますか?「イエスの栄光が現された」と書かれています。つまり光=真理ですね。この絵画のイエスも後ろに後光が指しています。
ではどんな真理をヨハネは真っ直ぐに見つめて記録したのでしょうか?
ちなみに、先日のやよいさんの記事を読んだ時、私はこのnoteを書いていたので、つい唸ってしまいました。
熱心党のシモンなんて、12使徒なのに、聖書中にほとんど記述がありません。シモン・ペテロと区別するために「カナナイ人シモン」と書かれていると単純に認識していましたが、その出身地に注目して、智慧を読み取るとは、さすが👀
熱心党のシモンとバルトロマイという、カナ出身者二人は、まさに両端にふさわしい二人ですね。
脱線してしまいました。
その二人の出身地カナで起きた事。マンリー先生の本を読んでる皆さんはお分かりだと思いますが、一番最初の「カナの婚礼」のしるしは、バッカスと同じです。
もう少し詳しく知りたいですね。ディオニソスもワインの神です。
そして、エジプトの方が原型です。ここではオシリスと繋がってますが、ホルスとも繋がってます。
「水をワインに変える」ことは、太陽の光合成で水/雨を変換してブドウを栽培し、ワインに変えるという太陽神話に基づいています。葡萄の果実が圧し潰され、死滅するが、発酵という行程を経てワインに生まれ変わることと、死と再生の密儀は重ねられてきました。
ぶどう踏み、楽しそうですよね。ちょっとやりたい😆
このように、古代エジプトではオシリスやホルス、古代ギリシャではディオニソス、古代ローマではバッカスから、常に葡萄酒は神からの授かりものと見なされてきました。キリスト神話も同じです。
葡萄と言えば、エゴー・エイミーの7番目に、「わたしはまことのぶどうの木です」というのがありました。先ほどのバッカス達は、イエス同様ぶどうの木であり、葡萄酒はそれぞれの血を表しました。キリスト神話ではイエスの血を象徴する葡萄酒。それがイエスの最後の晩餐に由来するミサ、パンと葡萄酒がイエスの体と血に変わること(聖体変化)と、それを信徒が分かち合うこと(聖体拝領)に繋がっていきます。
ここからは私の推測ですが、旧約聖書は新約聖書の予型と考えると、旧約聖書とも繋がると思います。聖書の中に葡萄の話は多いですし…
例えば、創世記49:11や申命記32:14では、「ぶどうの血」という表現があります。ここまで読んでくださった方には違和感ないと思いますが、普通に読んだら違和感ないですか?Google翻訳ならいざ知らず、市販の聖書で、ですよ。もちろんその翻訳がおかしいわけではなく、KJVでも「pure blood of the grape」です。「ぶどうの血」です。昔は、葡萄酒でも葡萄ジュースでも葡萄果汁でも何でもいいけど、他に言いようはないのかと思ったものです。でもこれ絶対繋がってますよね。ということは、“モーセ神話”も調べてみないといけないな〜と思います。
長くなってきたので、この辺で終わりたいと思います。一つだけでしたが、少し調べると、ヨハネが見つめていた真理の光の正体が分かりますね。古代から繰り返される密儀でした。
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