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18歳で就職をした私が転職するたびに幸せになった話

私は、現在50歳。家庭の事情により、大学にはいかず18歳で就職し、かれこれ産休、育休、体調不良以外、約30年間ずっと働いてきました。

私は学生時代のアルバイトを入れると、おそらく20以上の仕事をしてきたと思います。

その中で、社員として腰を据えて働いたのは、販売→法人営業→介護師→看護師→起業。

こうして改めて振り返ってみると、18歳で働きだしてから、ずっと楽しく仕事をさせてもらったなということに改めて感謝の気持ちが湧いてきます。

楽しく仕事ができる理由

「仕事って嫌な物、つらい物、だからこそ我慢料としてお給料をもらう。」と思っている方も多い中、なぜ、私が仕事を楽しくできるのかというと、この一つは父のおかげだと思っています。

父は、なかなか大変な仕事を定年まで一筋にしていましたが、私は父から仕事の愚痴を一回も聞いたことがなかったのです。

もし、父が仕事の愚痴ばかりいっていたならば、私はきっと「社会というものはよくないものなんだ」と、ネガティブイメージを幼少期から社会に出るまでの間に、いつのまにか植え付けられてしまっていたのではないかと思っています。このイメージいわゆる信念は、私の仕事に対する土台になったと思っています。

営業職から畑違いの看護師になるまで

現在看護師と個人事業のコーチング業のパラレルキャリアという働き方をしておりますが、もともとは、販売→法人営業→介護職員→看護師→コーチングの個人事業主と異業種の転職を経験しています。

20代の頃は10年に渡り営業職をしていました。種まき期間の3年を経て、私は全国500名の営業マンのトップに立ちました。

したったらずな口調は、小学生の頃に友人にさんざんいじられ、もともと内向的な私に拍車をかけたこともありました。

営業の仕事を選んだのは、当時一番お給料が良く、一人暮らしをするには十分なお給料をいただけることと、話をすることが下手で、コンプレックとしている私は、沢山話をすることでそれを克服したい気持ちもあり選びました。

しかし、いざ営業の仕事をすると、話をするのは私ではなくお客様の方でした。お客様の話を聴いて聴いて聴きまくっていたら、全国のトップになっていました。よって、話下手は克服には至りませんでした(笑)。

しかしながら、本当にいい経験ができました。この時の上司が本当に良くしてくださいました。「良く」というのは、私を信じ、自由にやらせてくださったのです。そして、沢山の優しいお客様にも本当に恵まれました。

実は、この仕事の面接に私は1度断られたんです。「女性の営業職はとっていないので、事務職でしたら・・。」と言われ、私は「それなら、結構です。」と断りました。その2日後に「今回、初の試みで女性の営業を採用してみることにしました。」と連絡があったのです。

そして、全国で数名の女性営業マンが採用され、男性社員には「女性は無理だろう」「直ぐに辞めるだろう」と言われながらも、私が3年後に営業トップになった時、全国にいるガッツのある女性営業マンの全員が営業成績トップ10に入り、ハワイに招待旅行に行ったエピソードもあります。

その後は、メーカーの営業に転職しました。この時は、臨時採用で70名くらいの方が面接に来られていました。私は1番最後の面接で、別室で相当待たされたことを覚えています。

皆さんの長い長い面接を待ったわりに、自分の面接は誰よりも早く終わってしまい、「さんざん待って、落ちたか・・・・」と思っていた翌日には「採用」の連絡が入りました。ここでも、本当に良くしていただきました。皆さんに親切にしていただきました。

その後色々とあり、歳をとってからも営業職をやるイメージが湧かなかったことや「このまま結婚できないかも!」と思ったりで、これからの時代、食いっぱぐれの絶対なさそうな介護職にと舵を切り思い切って転職します。

そこでは、介護老人施設の認知症専門のところに配属されました。はじめての重度の認知症の方々と接する中びっくりすることばかりでした。

それでも、もともと人間好きな私は、日々高齢者と接するなかで、どんどん愛情が湧いてきて、優しくすることで、重症の認知症の方々に信頼してもらえるようにもなりました。

意思の疎通が取れないほどの、重症の認知症の方に信頼?ってお思いでしょうか。

それは、なぜそう思ったのかといいますと、認知症の方をトイレに誘導するのって結構大変なのですが、私がトイレ誘導をするとなぜかトイレにスムーズに行ってくれるということが次々に起こりました。私が夜勤の時は、なぜか静かにお休みになってくださるということも起こりました。ほんと、不思議でした。その様なことが度重なり、信頼してくださっているのではないかと私は勝手に解釈しました。

その後、私はこの老人施設で素晴らしい看護師さんとの出会いをします。この先の人生について真剣に考えた時期でした。

「私もこのような人間になりたい!」と、32歳で全財産をはたき、修学金もお借りし、勤労学生を経て准看護師になりました。
人生で私が一番勉強をした時期です。

34歳で出遅れて看護師になった私は、20代で看護師になられている同世代の看護師くらいまで技術を追い付きたく、日本で一番心臓のオペをしている病院に決死の覚悟で入職します。

実はこの病院、准看護師は採用していなかったのですが、知らずに面接に行ってしまいました。

すると、私の決死の覚悟とこれまでの社会経験を買ってくださり、病院でただ一人、准看護師で採用していただき、心臓外科内科の病棟で働かせていただきました。

そして、そこで学ばせていただいた土台を大切に、現在50歳になるまでずっと看護職をしています。この仕事には、私のトキメクことが沢山詰まっていて、今までやってきた仕事の中でも、一番大好きな仕事です。

人生での落とし物を拾いに

人生の後半には、私の経験と学びの全てを使って、自分の出来ることで人に貢献したいとずっと考えていたんです。

自分にできる事は、もうこれしかありませんでした。独学で何十年も学んできた大好きな「心理学」。

事情により、18歳の頃に行けなかった私は、心残りであった大学で学ぶことを45歳で果たします。

4年間、水を得た魚のように学ばせていただきました。この歳になり、やっと大学で学ぶための心、時間、資金の余裕が持てたのだと感謝の気持ちでいっぱいでした。

看護師をしながら家事育児をしながら学ばせていただき、家族や職場の同僚の協力がなければ、私が果たせなかった夢です。
家族をはじめ、皆さんに本当に良くしていただきました。

人生の集大成で起業を


そして、さらに人生の後半に集大成として、コーチングで起業を果たしました。

起業というのは、「お客様のニーズを引き出し、考え抜いて自分で商品を作り、どうやったらお客様に届くのかを考え抜いて販売する、お客様からフィードバックを得て、さらに喜んでいただけるように改善、そして再投資し、さらに商品と自分の価値を高めていく」というものでした。

やってみてわかっかのは、私の今までの数々の仕事の経験や人生経験がひとつ残らず活かすことのできる仕事でということでした。

こうして振り返ってみると、私は社会にでてずっと人に恵まれてきました。なかには、嫌だなと思う人もいました。しかし、それを完全に上回る素敵な人たちに出会うことが出来ました。

私が数々の転職で学んできたこと

それは、人生は「ない物」に目を向けるより、「ある物」に目を向けた方が、感謝に溢れてずっと幸せになること。

「時間がない」「お金がない」「自信がない」「もう歳だから」は、単なる使いやすい言い訳であり、逃げ口上であること。

「いつか」ではなく、勇気を持って「今やる」ことで扉が開けてくること。

何かを成し遂げたければ、「恥を超えた勇気」と「自分を信じる力」が必要であること。

事実はひとつでも、解釈は人の数だけあり、解釈次第で人生を良くも悪くもできること。

自分の蒔いた種は、良くも悪くも後に必ず自分で収穫することになること。

狂気とは、即ち同じ行動をして違う結果を求めること。(アインシュタインの言葉のとおりでした。)

失敗はなく、全ては次に活かせる改善策であるということ。

自分の未完了の事象は、逃げてもどこまでもついてくる。向き合うことで完了し、根本解決できる。そして、それらのプロセスこそが、人に役立てることが出来る宝であるということ。

人生を楽しくしてくれる誰かをあてにして待っていても、そのような誰かは永遠に現れないこと。

感謝をすればするほどに、感謝する出来事が湧いてくること。

このように数々の転職は、私に沢山の幸せと学びを経験させてくれました。

最後に、大好きな詞を記します。

人は、歩みをやめた時に、
そして挑戦を諦めた時に、
歳おいていくのだと思います。

この道を行けばどうなるものか。
危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし。

踏み出せばその一足が道となり、
その一足が道となる。

迷わず行けよ、行けばわかるさ。

アントニオ猪木引退スピーチより


最後まで読んでくださりありがとうございました!


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