見出し画像

遠慮や恥ずかしさを捨てる

私は外国語を習得するために外国に滞在しています。言葉の知らない外国に単身で滞在して、その地で現地の人と生活を共にして、その国の言葉を使って会話をして意思疎通をしていく環境を強制的に作らなければ外国語など習得ができないと実感をしています。

時間をかければどんな環境であっても習得はできるかもしれませんが、私のように先のない人間にとっては日本語を使わない環境を強制的に作らなければ外国語など覚えることはできません。

貪欲かつストイックになる必要は全くありません。それよりも、真剣かつ積極的になる必要があると思いました。遠慮や消極的であっては外国語習得に向き合っているとは言えないでしょう。頭を使って学ぶ姿勢が大切なのではありません。それよりも前向きかつ積極的であることのほうが大切だと思うのです。

強制的に外国に身を置いたのなら、言葉が通じないからと言ってその場から逃げて一人でいたら何の成長もありません。会話をすることを拒否したら外国語の習得はできません。その場に身を置かず人と接して話をすることを拒否していたら何もかも成長しません。

言葉が使えなくても自ら進んでその場に身を置いて会話に挑戦していかなければ外国語など学べないのだと思いました。月なみな言い方ですがいっぱい恥をかいていっぱい失敗をしてでもその場から逃げずに立ち向かっていくことが必要だと感じています。

私の実体験で言えば言葉が通じないことで逃げてしまう気持ちは、遠慮や恥ずかしさからくるものだと思います。外国語の習得に限らず何事においても学びや習得や成長というものは、出来るか出来ないかや好き嫌いなどに関係なく、失敗や恥を気にすることなく、その場に身を置き積極的に関わって行く姿勢が大切だと思います。

私が恥を嫌い遠慮してしまうのは、日本が島国で単一民族であることも原因としてあるでしょう。歴史的に農耕民族であり土地と共に同じ環境を永続させることで生きてきた風土も関係もしていると思います。違うことや違う人たちと関わることに慣れていません。だから恥ずかしいし遠慮もしてしまうのだと思います。外国に目を向ければ知らないことや違うことばかりの環境が当たり前なのです。恥ずかしいだとか遠慮だとかと言ってはいられないのです。

たまたま私は語学習得で実感をしましたが、全てに言えることです。グローバルになってくれば違うことや違う人を受け入れていかなければいけません。恥ずかしいとか遠慮とかを捨てなければグローバルに対応できる人間にはなれません。日本人の特性である謙虚さやしとやかさを維持しつつ、それとは混同せずに、違いを受け入れるべく臆せず積極さを持ち合わせていきたいものです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?