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怪談ウエイトレス その2

2、前髪

 絶望的に手先が不器用な野木が、白いターンテーブルに乗ったホールケーキに生クリームのデコレーションをほどこすと、ケーキは職人がわざと毛羽立てた漆喰の壁みたいになった。本当はつるつるの大理石みたいに仕上げなきゃいけないのに。
「マスター、できました。漆喰です」
「ふん」
 もうケーキには触るなと言われるか、いい感じのアドバイスがもらえるかと待っていたが、マスターはくん、と鼻を鳴らすと「俺のほうがだんぜんうまい」とだけ言って、エプロンをするすると外して出かけていく。
 
 いい天気だ。空には雲がじっとしている。
 そういえば自分は、カタチを形容できるような雲を一度も見たことがないと思いながら、レジ脇に設えられたボックス棚に寄り添うようにして外の通りを見ていると、歩道橋の方からまことさんが歩いてくるのが見えた。白いシャツに、グレーの半袖ジャケットを羽織っている。スタンダードだけどおしゃれ、おしゃれだけどスタンダードな服が好きなのよ、俺、というのがまことさんの口癖だけれど、野木には何がスタンダードかわからない。
 まことさんは歩道橋を渡った駅向こうにある、なんとかいう長たらしい横文字の会社の社長だ。社長といっても社員四、五人の小さなもので、コーヒーをかたくなにホットと呼称するし、すきあらば駄洒落を言いたがる普通のおじさんだ。まりもには、三日にあげず通ってくる。
 自分の姿がこちらから見えているのは当然わかっているだろうに、まことさんはまっすぐ前を見たまま、通り過ぎて行ってしまった。おそらくこの時間には、野木一人の確率が多いと知ってのことだろう。あれからまことさんは、野木が一人で店番をしているときには、決して店に近寄らなくなったから。

 あの日も、晴れていた。
 野木が三枚目のネルを洗い終えたとき、チノパンのポケットに手を突っ込んだまことさんが、己の胸筋だけでガラス扉を開けにかかった。扉の上に取り付けられたジングルがチリンと鳴ったが、胸筋がひ弱だったせいかドアは押し戻され、まことさんはうっと詰まったような声で呻きながら、後ろに反り返った。とっさにドアの取手をつかむと、転がり込むように店に入ってくるまことさんを、野木は忌々しく迎えた。
「いらっしゃい…」
「焦ったあ。もう少しでこけるとこだったよ」
「ドアが壊れるから、やめてくださいよ」
「ごめんて。なに?今日は野木ちゃん一人なの?じゃあ俺は…レイコーね。レイコーわかるかな?アイスコーヒーね」
「まことさん、いつもはモカストレートじゃないですか…あー、はいはい。私のコーヒーじゃあねえ」
「いやいや…今日はなんつうか、暑いからさあ」
 野木ははいはいといなしながら、アイスピックで氷を砕きにかかった。自分が一人で店番しているときは、どうもアイスの注文が多い。だからといって、コーヒーを美味しく淹れる訓練をしようとか、生クリームをうまく塗布できるようになりたいとも思わない。目の前に出された仕事を、目の前の手を動かしてこなすだけだ。
「野木ちゃんは、ここに来て何年目?」
「一年ですよ」
「そんなもんか?もっといるのかと思った」
「ふてぶてしいって言いたそうですね」
「そんなこともないけどさ。でも、この店に馴染んでるね」
 どんなふうに馴染んでいるかは、あえて聞かず、汗を拭いているまことさんの右手あたりに、アイスコーヒーのグラスを差し出した。
「いやあ、今日は参ったよ」
「どうしたんですか?」
「昼前に床屋に行ったんだけど、それが変な店でさ」
「まことさんが床屋ですか。てっきり、美容院に行ってると思ってましたけど」
「俺が?そんなとこ照れちゃって行けないよ。昔から床屋ですよ。髭も剃ってもらえるし、落ち着くもん」
「それで、その床屋さんがどうかしたんですか」
「うん…。得意先に行った帰りだから、行き当たりばったりに見つけた店なんだけどね」
 
 まことさんはそう言うと、アイスコーヒーをほとんど一気に吸い上げて、話し始めた。

 赤青白の斜めの棒がぐるぐる回るやつ、あるだろう?
 あれが店先に置かれてるような店だよ。看板は色褪せてたけど中は割にきれいで、若い店主が一人いたんだ。適当に短くしてくれって言って、しばらくはケープにくるまれて、こけしみたいにじっとしてたんだ。そしたら店主が、『これから前髪を切りますから、目を閉じていてくださいよ』て言うんだ。俺はうん、と答えて目を閉じた。
 まぶたに射す光がまぶしくて、どこかで鳥の声がしてた。鋏が噛みあう音が気持ちいいなあ、なんてはじめは呑気に思っていたんだけど、いつまでたっても目を開けていい、と言われない。
 そんなに伸びていたわけでもないのに、すごく丁寧に切っているのか、たんに声をかけてこないだけでもうとっくに切り終わってトイレでも行ったのかと思ったんだけど、鋏の音はまだ続いてるんだよ。切りたての尖った髪が目に入ったら嫌だから、目を閉じたまま床屋に言ったんだ。
『もういいですかね』って。
 そしたら、
『まだです』って言う。
 その声が、店主の声じゃないんだ。確かに、一言二言しか話してないけど、急に声が低くなっていくつも年をとったみたいになったんだぜ。しかも、聞いたことのある声なんだ。誰だかはわからないよ。
 なんだか怖くなって、体をくるんでいるケープの中から両手を出したら、ばさばさって髪の毛が落ちてきた。それが自分の髪じゃないんだよ。目を閉じてても、そういうのってわかるだろ?なんていうか、落ちるときの重さとか、音とかで。俺の髪はそんなに長くない、野木ちゃんも知ってるよね。
 目を開けるかどうか悩んでたら、ふいに誰かが真横いるような気配を感じた。店主?いや違う。鋏の音とは反対だ。他にも店員がいたのかと思ったんだけど、そばに立って何もせずじっとしてるのもおかしい。しかもどんどん近づいてくる。まるで、俺と入れ替わって椅子に座ろうとしているみたいに。我慢できなくなって目を開けようとしたとき、まだです、まだですって店主が言うんだよ。髪の毛はばさばさ落ちてくるし、店主はまだです、まだですって」

 話の最中に、野木はこっそりアイスコーヒーを注ぎたした。まことさんは、無意識って感じで足されたアイスコーヒーにガムシロップを入れる。ひとつ、ふたつ。ストローで強くかき混ぜるから、氷のあたる音が騒がしい。

「髪の毛が俺の手の上にどんどん降り積もって、横にいるやつの息がかかりそうなほど近くになって、今すぐケープを剥ぎ取って店を出ようって立ち上がろうとしたんだ。その瞬間だよ。耳元で誰かが、『もういいですよ』って言ったんだ。それで、目が覚めた。
 夢を見てたんだ。店の中には俺と若い店主以外、誰もいなかった。
『お客さん、よく眠ってましたね。お疲れかと思ってしばらくそのままにしておいたんです』
 足元を見たら、切った髪の毛はすっかり掃除されたあとだった。それで鏡を見たら…」
「見たら?」
 
 まことさんは、それには答えない。一瞬、窓の外を見て、また話し出す。

「髪を洗ってもらって、急いでいるからって髭をあたろうというのを断って店を出た。オフィスに戻ったら、新人が電話がかかってきたって言うから、誰からと聞いたら、『名前を言わないんですよー』って。
『ですよー、じゃなくてちゃんと聞かないと。いつごろだい』
『11時15分です』
『そこはやけに正確だな』
 その時間はちょうど床屋にいたころだった。伝言はあったか聞いたら、まだですって答えるんだ。まだ聞いてないってことか、それにしては変な言い方をすると思ったが違った。『まだですって。それだけ言って切れちゃいました』って」

 話はそこで終わった。野木は、窓の外の空を見上げた。雲の形がやけにくっきりしてきたようだ。しゃがんで、冷蔵庫を開ける。レモンと生クリームとさっき作ったケーキがあった。少し考えてから、その横に冷やしておいたチョコレートを出した。

「なに?」
「チョコレートです。お土産にもらったんで良かったらどうぞ」
「俺、甘いもの、苦手なんだよ」と言いながら、まことさんは金色の包を開けて、丸くて甘くて柔らかい塊を口の中にほうった。
「ところで、さっき言いませんでしたよね」
「何が?」
「鏡に何がうつっているか。何がうつっていたんですか?」
 まことさんは、チョコレートをもうひとつ口に入れると、わしわし噛み砕いた。まるで硬いものみたいに。
「もちろん、俺だよ。俺だけど…なんか違ってた。髪の毛を切ったからとか言わないでくれよ。そういうことじゃないんだから」
 チョコを全部食べきって、
「それからこれはどうでもいいんだけどさ。ここに来る前に変な男に声をかけられたんだ。早足で歩いてきて、俺をじっと見すえながら、どうもって」
「誰ですか?」
「誰って野木ちゃんは知らないだろう。俺の知り合いなんか、一人も」
「そうですね。で、誰です?」
「だから…まあいいや。それが、わかんないんだ」
「わからない?なんですかそれ。男か女か、若いか年寄かくらいわかるでしょう」
「それはわかるよ。男だよ」
「同い年ですか」
「随分ピンポイントだな。まあ、うん。同じくらい。顔には見覚えがあった。それも久しぶりって感じじゃなくて、ついさっき会ったばかりなんだけど、いつか思い出せないし誰なのかもわからないんだ。そのうちに相手も変な顔になってきて、すみません人違いでしたってあわてて行っちゃった」
「そういえば、まことさん、今日はなんだか様子が違うなって思いましたよ」
「えっ?なに、やめてよ、そういうの」
「嘘だと思うなら、見てくださいよ」
 野木は自分のバッグからコンパクト式の手鏡を出して渡した。まことさんが自分の顔を覗き込んでいる間、またカウンターに肘をついて、外を眺めていると、ぎいっと木の椅子が床をこする音がした。
「そろそろ仕事に戻るよ」
 立ち上がると、コンパクトを野木に返さないで自分のものみたいにチノパンのポケットに入れてしまってから、千円札を二枚置く。
「アイスコーヒー、一杯ですよ」
「一杯じゃないだろ」
 注ぎ足したのを知っていたのか。
「待ってください、今、お釣り出しますから」
「いいや。チョコも食べたし」
 そう言うと、まことさんは前触れもなくスマホを耳に当て、外に出た。店の前の石段を一段、二段降りたところで立ち止まる。受話器を耳に当てたまま、後ろ姿を見せている。追いかけて声をかけるべきか迷っていたら、急に石段の残りを降りて、逃げるように行ってしまった。
 以来、まことさんは野木が一人でいるときには店にこなくなった。
 すっかり伸び切って空とまじりあった雲を見上げると、野木はため息をひとつ吐いた。

3,幽霊が遠いに続く

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