母親は透明人間なのか?
今朝、なんとなくつけていたテレビを見ていたら、障害をもつ子供をもったお母さんが、透明人間になっていたという話をしていた。
いろんな思いが、自分の中でよみがえってきたのです。
山本さんの話から
山本さんは、結婚して、子どもが3人。3人目の子どもが障害を持って生まれてきたのです。
子どもを育てていく上で、自分が仕事を辞め、障害を持つ子どもの身の回りの世話をする。自分の生活がガラリと変わる。
でも、夫や自分の周りの人の生活は変わらない。
なぜ、私だけ?という思いが募る。
そして、障害を持って生まれた子どもが学校に行く時の条件に、学校から付き添いをするように言われる。緊急時に備えるために。
でも、学校から「なるべく気配を消してください」と言われるんです。
子どもの自立のために。
でも、付き添う山本さんは、学校でただただ時間を過ごす。透明人間のように。そして、そうやって時間を過ごすうちに、適応障害になっていったんだそうです。
そうしてたどり着いたのが、写真を撮ることで自分を表現する。
そうしてやっと、もとの「山本美里」という人間になれたんだそうです。
なんか、テレビを見ている時、この記事を読んでいる時、自然に涙があふれてくる感情があったんです。
私が子育ての時に思ったこと
私は、学校を卒業して看護師の職に就きました。
看護師の仕事は楽しかったし、やりがいも感じていましたが、仕事を始めて3年目に結婚、5年目に子どもを授かり、退職。
看護師として仕事をしたのは、5年間。
その後は、夫の家族と同居し、専業主婦となりました。
子どもは3人、2学年づつ離れて、男の子が3人。
子育てに追われ、家のことに追われ、どんどん自分が何者かわからなくなっていた時期です。
子どもはかわいい。
これは本当で、子どもを産んだことを後悔することはなかったけれど、もともと子どもがあまり好きな方ではなかった私は・・・。
なんとなく義務感というか、母親だから自分を犠牲にしてでも子育てをしていかなければいけない、そんな価値観で生きていたように思う。
当時の、私に対するまわりの価値観もそうだったんだろうと思っている。
でも、子どもを育てるって本当に大変で、子育てに関して、「これで良かったんだろうか」そんなふうに思うことも多かったし。
何より、仕事を辞めて、子育てに専念して、夫は仕事に忙しく、子育てにほぼ協力がなく、私は自分の時間がいっさいなかった。それこそ、同居しているのに、美容室にいく時間さえなかった。
子育てだけじゃなく、義父母、義妹、祖母との生活に疲れてしまって、ふと気付くと、〝母親〟と〝嫁〟という役割の中で生活している自分がいて、子育てをしてる中で自分が失われている感覚があったんです。
子どもの母親として、夫の家族の中の嫁として、生きる。
私の存在って、それだけ?私自身っているのかな?って思いながら生活していた気がする。
そして、夫は生活が変わらないのに、なんで私だけ変わらなきゃいけないの?って思っていた気がする。
でも、声をあげられなかったんですよね。
それでも、自分を探す
山本さんは、自分が何をしたいか考えたときに“写真”と思ったんだそう。
そして、写真を通して自分を取り戻していくんです。
素敵だなって思いました。
子どもって、母親だけのものではないですよね。だから、子どもがどんな風に生まれてきても、みんなで支えあえる世の中になったらいいなって、思うんです。
医療的ケア児を持つお母さん達の大変さって、ホントにあると思うんです。
私も、看護師として仕事をしているときにNICU(新生児集中治療室)で仕事をしていたことがあり、やはり重度の障害を持って生まれてきた子どもの両親のいろんなカタチを見てきました。
母親だけのせいではないのに、夫婦仲がうまくいかなくなってしまったご夫婦、不機嫌そうな姑さん、なんか胸が痛くなったことを思い出しました。
障害をもつ子どもをみること、子育てをすること、そのこと自体が嫌というわけじゃなくて、子どもに関わるみんなで育てる、母親だけが背負うことがないように。
そして、子育てをしながらでも、それぞれがその人らしく生きられるような世の中になって欲しいなぁ・・・と思っています。
そのために、自分ができることってなんだろう・・・。
みなさんも一緒に考えてみませんか?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?