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Varg Vikernes氏についての最大の誤解 ~仏教徒である日本人からみたVarg Vikernes氏とは?~

長文注意


このnoteは『人生の大半を仏教徒として生きてきた日本人によるVarg Vikernes氏への見解』を主なテーマとしている。
お堅い口調で語られてはいるが、ほぼお遊びのような文章の領域を出ないものであるということは先に述べておく。


1:Varg Vikernes

日本語ではヴァーグ・ヴィーケネスと発音されるのが一般的。
彼の名前を聞いてピンと来る日本人は恐らくメタルバンド好き、特にブラック・メタル好きの日本人だろう。
一方で彼について知らない人のために説明すると、Varg Vikernes氏はブラック・メタルバンドのミュージシャンである。超単純に説明するならこんな説明が適切か。

2:悪魔崇拝と仏教徒

ブラック・メタルといえば、何よりもまず悪魔という存在や悪魔崇拝という立場を連想する者が多いはずだ。
確かにこの『ブラック・メタル=悪魔』という認識は間違いではないと思う。
実際に楽曲のジャケットにもバフォメットペンタグラムが用いられているし、歌詞も悪魔崇拝の立場を連想させるものが多い。
個人的にブラック・メタル=悪魔崇拝というイメージを最もよく表していると思うのは、VenomDon't Burn the Witchという楽曲である。
これでもかとブラック・メタルらしい要素を詰め込んだ楽曲だろう。
ブラック・メタルって何?と聞かれたのなら、私だったらとりあえずこれを聴かせたい。ジャケットのデザインも、ペンタグラムの中にいるバフォメットがこちらを睨み付けているという作りのものがあり、非常にわかりやすいブラック・メタルバンドとして押し出せるだろう。
その他にも悪魔崇拝猟奇的なイメージを全面に押し出していたり、実際にサタニスト(悪魔崇拝者)であるミュージシャンもいることから、確かにブラック・メタル=悪魔崇拝という図式は正しいといえる。
しかし、私がこの図式に関して以前から非常に面白いと思っているのは、悪魔崇拝の思想が強い音楽を仏教徒である人々が聴いていることである。
思想宗教とエンタメという両者の関係性について細かく話すのは今回は避けるが、それでも大雑把に私自身の見解を述べるとすれば、思想宗教とエンタメというものは基本的には切り離して考えるべきという主張となる。

例えば、日本人の多くは恐らく幼い頃から『仏様』を拝んで生きてきただろう。中にはキリスト教など他の宗教を信じている日本人もいるだろうが、多くの日本人が仏教徒という枠組みに収まって生きてきたといえる。
ここで重要なことを一つ述べるが、日本人というものは非常に宗教や思想というものへの執着が薄い。例えば、仏教徒であるのにクリスマスを楽しむというのが典型的な例である。
そんな感じだから、『幼い頃から仏教徒として生きてきた』という感覚を持ち合わせていたとしても、その感覚は比較的弱い感覚として自覚されるのだ。
何かしらの存在を強く信じて崇め奉るという行動を日本人はあまり取らないように思う。これは政治などに関しても同じで、デモやらストライキなどを日本人はあまり行わないイメージが強い。仮にそういった行為をしている人々がいたとしても、彼らは『変わった奴ら』と認識される。
特に若者などが政治について熱心に語るなどということは稀で、政治について語る人は所謂『意識高い系』などと揶揄される。
また、X(旧Twitter)などに代表されるSNSの発展により政治的発言をする一般人も多く見かけるようになったが、彼らもまた日本という国においては『変わった奴ら』と捉えられる傾向にある。
もちろん、左だとか右だとかいう偏った者や、とある政治家等を執拗に批判する傾向にある者は変わった人間達だと非難されるのも無理はないといえる。
特に何かしらの存在を強く信仰するかもしくは逆に批判するという行為にあまり執着のない日本人にとって、そういった変わった人間達は恐怖を植え付ける存在である。

3:日本人のエンタメ吸収方法

このように日本人というものは思想等に執着の無い民族だから、エンタメというものと宗教的概念もしくは政治プロパガンダなどが紐付けられていることに対して、基本的には『鈍感な反応』をみせる。
鈍感な反応というのは、所謂『何も知らない寛容な日本人』という見方をされてしまうほどの『能天気さ』である。
つまり、日本人が好む海外のエンタメには実はプロパガンダの意味が含まれていたり、とある思想が織り込まれていたとしてもそのエンタメが好きであれば、それらに対してアレルギー反応をみせることはなく、ただ単に「エンタメとして楽しむことができたらそれで良い」と主張するのだ。当然、これの対象が日本国内で産出されたエンタメだとしても同じである。
ここで今回のテーマであるブラック・メタルとの関連に立ち返ってみる。日本人特有の『鈍感な反応をみせる民族性』を用いてブラック・メタルを観察すると非常に興味深い現象が露になる。
冒頭でも説明した通り、ブラック・メタルは悪魔崇拝の音楽である。そしてこの認識は多くの場合は正しい。
この道理に基づいて日本人の民族性を用いながらブラック・メタルを観察していくと、こんな不可思議な疑問を発見することができる。
日本人は悪魔崇拝という概念を理解できているのか?

4:『悪』という立場

悪魔というものは一般的に次のようなイメージを持たれている。
・尖った耳
・鋭い牙
・睨むような目付き
・先の細い尻尾
・黒い体

こういった複数の条件を挙げれば、悪魔というものを思い浮かべることは簡単だろう。そしてこれらの条件にさらに何か付け加えるとするならば『反キリスト』という条件である。
まず、悪魔という存在を思い浮かべろと言われた際に『反キリスト』という前提を同時に思い浮かべる者はどれほどいるのだろうか。
特に仏教に親しんできた日本人が悪魔に対して『反キリスト』という条件を挙げる確率はどれくらいだろうか。
特に日本人の子供であればすぐに『反キリスト』という条件を挙げることはほぼ不可能なはずである。大人であったとしても不可能に近く、恐らくハロウィンなどを賑わすキャラクターとしての『悪魔』を思い浮かべるに留まり、それより先の思想という観点においてのイメージの想像はできないはずである。

一方でこれがキリスト教徒であった場合はどうだろうか。この場合においてのキリスト教徒がどの人種なのかということについては明記しないが、とにかく日本人であり仏教徒であるという条件に当てはまらないということだけは前提として述べておく。
キリスト教徒の場合は恐らく『悪魔=反キリスト』という図式が容易く脳内に浮かぶはずである。日本人の多くが思い浮かべるハロウィンのモチーフのようなあの悪魔ではなく、そういった思想を具現化した存在として想像されるだろう。
では、このような現象が起こるのは何故か。それは仏教という思想領域においては悪魔は存在しないからである。
いや、悪魔が存在しないというのは言いすぎかもしれない。もちろん、仏教という思想領域においても善と悪という両方の立場は存在するし、悪魔的立場の存在をみることは可能である。しかし、本稿の主テーマであるブラック・メタルにおける所謂『典型的な悪魔』という意味では仏教の領域においてその存在を確認することができない。
一応は仏教という思想領域においても『悪』という立場は存在するようではあるが、姿形がはっきりしたものとして対比に出されることは稀である。
仏教や和の思想という領域においての姿形がはっきりした悪という存在は、例えば『』などが挙げられるのだが、これはやはり反キリスト的立場である悪魔と対峙する(物理的な対峙ではなく比較物としての対峙)ものとしては弱すぎる
何故なら仏教においては『相反する立場』というものの存在感が元から希薄であるため、ここで鬼とかあとは妖怪などを持ち出したところで、人々がそれらを『反仏様的立場の存在』として認識する可能性は低いだろう。
例えば仮に仏教徒である人物が「私は反仏様です」などと言ったとして、それを証明するために鬼や妖怪を証明のモチーフとして引っ張り出してきても証拠としては弱い。やはり、反キリスト的立場の代表格である『悪魔』のような絶対的なモチーフでなければ反抗的な立場を主張する場においては効力が弱い。
以上のような考察から、元々仏教という比較的アジア圏において信仰されている宗教というものは『悪の立場』の存在感が薄く、やはり仏教信者は悪魔という反抗的立場に対しては馴染みが無いとか、共感しにくいという可能性が大いにある。
それでは、悪魔というものを大々的に打ち出し、世の中に『悪魔崇拝の音楽』という認識まで響き渡らせたブラック・メタルという音楽を私達日本人が聴いても楽しめるのは何故か。
その答えとしてはやはり、先に述べた
日本人特有の『思想とエンタメに対する鈍感な反応』が挙げられる。
また、日本人の大半が信仰している仏教というものにおいては『悪』という存在が希薄であるため余計にそのような『悪』に対してのアンテナが弱い。だから、ブラック・メタルという悪魔崇拝の音楽を仏教徒であるにも関わらず平気で享受する。

この点に関して『最大の矛盾』が生じているということは誰の目にも明らかだろう。
その『最大の矛盾』というのは、仏教徒という立場にある日本人が悪魔崇拝に代表されるブラック・メタルを楽しむということである。
注意しておきたいのは、仏教徒である日本人がブラック・メタルを楽しむことを批判する意図は無いということである。私が伝えたいのは、他でもなく『仏教徒である日本人が悪魔崇拝のサウンドをありがたがるという面白い矛盾』についてなのだ。
本稿において幾度となく指摘している『日本人特有の鈍感な反応』に関しては、もちろん日本人以外の人種にも該当する。しかしながら、今回のテーマを論じる上で他の人種の例を持ち出すとややこしくなるのでそのような例外については言及しない。

5:Varg Vikernes氏の思想とは?
さて、ここまで仏教徒という思想領域と悪の立場についての関連性について述べてきた。これ以降はVarg Vikernes氏(以降Vikernes)を軸に話を進めていく。

 Vikernesはメタルを聴かない一般的な人々(比喩的な意味で)からは完全に『悪魔崇拝者(サタニスト)』と認識されている
それはもう至極当然のことで、彼の偉業という名の悪行は『教会への放火』『仲間を殺害した』というものである。そして何よりブラック・メタル音楽という悪魔崇拝サウンドを奏でていたことは、そのように認識される最大の要因だろう。
しかしながら、Vikernesは特に近年において「自分がサタニストだったことは一度もない」という主張をしている。
これまでの流れにおいて私は非常に偉そうに上から目線で様々な事柄を論じてきたが、私はこのVikernesの主張には心底驚いたのである。なんといっても私は紛れもない『純日本人』であり『仏教徒』なのだから。

当然ながら私も例に漏れず仏教徒であるにも関わらず、クリスマスやハロウィンに代表される西洋の行事には幼い頃から親しんできた。そのため『純仏教徒』という振り分けは適切ではないため『仏教徒』という括りに納める。
この『純日本人であり仏教徒』という私にとってもやはりブラック・メタルは悪魔崇拝の音楽という図式が非常に強くインプットされている。Vikernesについてももちろん『サタニストのミュージシャン』だという認識をしていた。そのため、私は特に近年の彼の主張である「自分はサタニストであったことは一度もない」という発言に驚かされたのである。

6:Varg Vikernes氏への誤解
この議論がお遊びの範囲を出ないのは、やはり私がVikernesの思想や主義主張を根っこの部分から理解することが難しいからという理由が挙げられる。
Vikernes自身の思想の立場というものは大雑把に現せば『異教徒』というものである。
この異教徒というのは簡単にいうと、その国や地域で主流となっている宗教以外を信じている者を指す。つまり、キリスト教が主流である地域においてキリスト教以外の宗教を信じている者は異教徒という扱いになる。Vikernesの出身地であるノルウェーという地域では、多くの人々がキリスト教信者である。その一方で、彼はキリスト教を信仰しないという立場をとっている。そういった意味で彼は異教徒なのだ。
この異教徒という立場のVikernesは要するに『反キリスト教』の立場の人間なのだが、ここで注意しなければならないのは、Vikernesは反キリスト教ではあるがサタニストではないということである。

本稿において訴えたいことは
『Varg Vikernesは誤解されたサタニストである』ということだ。
ブラック・メタルに親しみがないかもしくは忌み嫌っている人々にとって、Vikernesという存在は紛れもないサタニストである。
先にも記したように、ブラック・メタルバンドのミュージシャンが『教会放火』『仲間を殺害する』などといった偉業(皮肉的な意味)を成し遂げたのだから、これはもう世間からすれば
Varg Vikernesは野蛮なサタニストだ
Varg Vikernesは悪魔的思想の持ち主だ
などという印象が根付くのも無理はない

しかし、彼はサタニストとしての異教徒ではなく、キリスト教に意義を見出ださない者としての異教徒なのだ。
彼の思想について調べていくと、教会放火という偉業もサタニズムの思想を轟かせることを目的として行ったのではないと判明する。つまり、Vikernesは『キリスト教もサタニズムも嫌う異教徒』なのだ。
ただ、あらゆる宗教的知識等をいくら習得したところで、Vikernesの思想を根本から理解することは困難であるということには注意したい。特に生まれついたときからキリスト教の思想が身近になかった『純日本人兼仏教徒』である私のような人間にとっては非常に難しい。
Vikernesに限らず反キリスト的立場をとる者は単に知識だけに基づいてそのような立場を主張しているわけでなく、人生の中で培ってきた価値観に基づいて立場を主張している。つまり、『キリスト教を信仰しない』という立場をとるに至るまで、机上の知識のみで結論を見つけたわけではないということだ。
Vikernesの生い立ちを調べると、彼は幼い頃に人種の問題にも直面したことがわかり、それが彼の思想の基盤のひとつにもなっているとわかる。また、なによりもまずヨーロッパ人としてキリスト教を身近に感じることができた彼は、学習で得ることのできる『知識』というものだけに基づいて反キリスト的立場を選択したとは考えにくい。
逆に、私達日本人が主に信仰している仏教についてVikernesが心の底から理解することは困難である可能性についても指摘する

7:コミカルな例から分析
ここで少しコミカルな例を用いてみる。Vikernesについて調べると、彼がヴァイキングの衣装を身に付けている写真がいくつか見つかる。
ヴァイキングとは何かというと、主にスカンジナビア(ノルウェー、デンマーク、スウェーデンなどに代表される地域)において生活していた民族なのだが、もちろんこのヴァイキングなどは日本人にとって全く馴染みの無い存在である。ヴァイキングなどと聞いても自分の好きな食事を選択して食べるスタイルの食事形式を想像するだろう。
ちなみにこの食事形式である『バイキング』も、一応はこのヴァイキングが由来となっている。
バイキングの由来について調べたところ、ヴァイキングという映画において海賊達が豪快に食事をしている姿から着想を得て自由な食事形式をバイキングと名付けたと判明した。
英語圏においてはやはり、バイキング形式の食事スタイルをバイキングと言っても意味が全く異なるので伝わらないようである。

本題に入るが、このバイキング…ならぬヴァイキングという民族の衣装を身に付けたVikernesを日本人に置き換えてみると非常に違和感を覚えることとなる。
この違和感の理由であるが、アジア人である日本人がヴァイキングの服装をしても似合わないとかそんな理由ではなく、日本人という人種がヴァイキングという民族に関連がないという理由が挙げられる
やはり私もヴァイキングというものが民族の名前であるということは知ってはいたものの、恥ずかしながら彼らが一体どんな民族なのかということはVikernesについて調べるまで全く知らなかったし、彼が身に付けている鎖帷子のような衣装がヴァイキングの衣装だなんて一切わからなかったのだ。
恐らく大半の日本人は私と同じ状態だといっても過言ではない。尤も、メタル好きや特に海外メタル好きであればヴァイキングという存在について知っている人々は多いかもしれないが、私はVikernesの身に付けている衣装がヴァイキングのものだとはわからなかったという恥ずべき事実はある

このように自分の国のルーツに一切関係の無い民族や概念に関する装いをすることは、やはりどうしても違和感を覚えることとなる。逆に今度は日本人でない人種が和装をした場合について考える。
近年は外国人旅行者も非常に多く、主に京都などでは和装体験をする外国人旅行者も多い。例えば、舞子さんなどの体験をする外国人旅行者などはよくみられる。しかし、このような場合においても違和感を覚えることとなる。もちろん、この場合においても決して見た目という問題においての違和感ではなく、ルーツに無関係な装いをしているという意味での違和感である。
当然ながら、旅行の楽しみとして舞子体験を通して和装の経験を行っているのだから、ルーツなどという堅いことを言うのはあまりにもつまらないかもしれない。しかし、コミカル且つ分かりやすい例として用いたまでである。

コミカルな例としてヴァイキングの衣装と日本人の和装という概念を用いてみたが、ここでまたVikernesの思想への認識という問題に立ち返ってみる。
すると、
自分自身のルーツに無関係な思想を根本から理解することは困難だという事実が見えてくる。

私は先に、
「この議論がお遊びの範囲を出ないのは、やはり私がVikernesの思想や主義主張を根っこの部分から理解することが難しいからという理由が挙げられる。」
と主張したが、これはVikernesの思想を必死に学習することを怠けるための言い訳や甘えた心を表すための主張ではなく、彼の思想を必死に理解しようとしても無理だという意図を伝えるための主張である。
もし私が机上の学習者としてVikernesの思想を隅々まで必死に勉強して理解したと主張したところで、恐らく滑稽な人間にしかならないだろう。
当然ながら同じ日本人や非ヨーロッパ人、非キリスト教徒として彼の思想を隅々まで勉強した者を批判する意図は皆無である。あくまでも私個人がどのように見られるかについて気にした結果であり、他の非ヨーロッパ人や非キリスト教徒などが彼の思想を学んでも滑稽な結果になると断言したいわけではない。

9:誤解に込められた皮肉
Vikernesへの最大の誤解というものは、恐らくVikernes本人にとっても歯痒いものであるだろうし、ブラック・メタルのいちファンである私としても密かに歯痒い思いをするものである。
しかしながら、Vikernesは『猟奇的で野蛮な悪魔主義者』というイメージ付けによってその存在を大きくしたということもまた事実である。
少なくともブラック・メタルを忌み嫌う層や多くのメディアなどはVikernesをそのような人物として認識していたはずだし、Burzumという紛れもないブラック・メタルバンドのミュージシャンとして生きてきた彼にとってその触れ込みは間違いではない。また、メディアや世間というものは『センシティブな存在』を好む傾向にあるから、『悪魔主義者のブラック・メタルミュージシャン Varg Vikernes』という誤解された存在は、世間にとって格好の餌食であった。
仮に『異教徒Varg Vikernes』として世に名を轟かせようと努めても、何も知らない『ポーザーである世間様』にとっては今ほど強い印象は残らなかったという可能性は否定できない。
Vikernes最大の誤解について紐解いてきたが、恐らくこの誤解こそが彼の代名詞だという皮肉が明らかとなった。


あとがき

Hail Satan!って何だよ!

Hail Satan!
いやいや、何だそれ。
私はブラック・メタルというものを知ってからそんな言葉を耳にした。Hail Satan!とは『サタン万歳!』という意味なのだが、一体この言葉を私は気軽に楽しんでいいのかと疑問に思った。
当然ながらブラック・メタルというエンタメの一種を楽しむ際にそんな思想とかルーツなどを真剣に考慮する必要はない。本文中では『鈍感な反応』という日本人特有の心理に対しての批判を行ったが、やはりこの鈍感な反応はエンタメを純粋に楽しむという観点において実のところは必要である。
だから私はブラック・メタルの悪魔崇拝的歌詞やそういったコンセプトに対して、悪魔などに馴染みがなかろうとも楽しみを見出だしても良いのだと思い込もうとした。しかし、私はどうしてもその思い込みというものに一種の『気持ち悪さ』を感じたのだ。
これまで仏教徒として生きてきたので、悪魔などというものはせいぜい何かの物語かハロウィンといった行事でその存在を認識するだけであった。そんな日本人である私が何故ブラック・メタルを好きになった途端に、やれバフォメットだサタンだと言い出すのか。
これは別に日本人で悪魔崇拝サウンドのブラック・メタルを楽しんでいる人々を馬鹿にしているとかではない。しかし、私個人としてはどうしても悪魔という反キリスト的立場を主訴とする存在に対して、仮にエンタメだとしても楽しみを見出すことはなんだか滑稽な状態ではないかと感じたのである。
思想や政治などとエンタメは切り離すべきという考えを私は支持しているのだが、ブラック・メタルを心の底から楽しむ際に、それらとの関係を切り離すことはむしろタブーにも思えた。
ただ、キリスト教徒である海外の(主にヨーロッパ圏)ブラック・メタルのファンも同じような考えを持っている人々は存在するようである。ブラック・メタルバンドのメンバーが完全に悪魔崇拝の立場をとっているが、やはりヨーロッパ圏のファンの中でも、
『メンバーの思想と楽曲の両方を支持する』
『メンバーの楽曲は支持できるが、思想は支持できない』
というように意見が分かれているらしい。
キリスト教徒が大半を占めるヨーロッパ人のブラック・メタルリスナーであっても悪魔崇拝とエンタメの切り離しができる人々とできない人々はやはり存在しているようだ。
要するに、キリスト教徒であるのに悪魔崇拝サウンドを楽しむ層と、キリスト教徒だからこそ悪魔崇拝サウンドは楽しめないという層がいるということだ。

余談だが、私がVarg Vikernesについて知ったのはMayhemがきっかけである。VikernesとMayhemとの関わりはあまりにも強いのでVikernesを知ったきっかけとして始めにBurzumを挙げる人は少ないだろうと勝手に想像している。
Mayhemといえばそれこそブラック・メタルの代表格…などというと論争が巻き起こりそうなので代表格という表現をするのはやや憚られるが、Mayhemというバンドのイメージは世間一般的なブラック・メタルのイメージに相応しいだろう。
しかしながら、Mayhemでボーカルを務めたことのあるDead(Per Yngve Ohlin)もサタニストなどではなかったと個人的には思う。
本稿には直接関係がないのでDeadについては控えめに語るが、Deadは痛ましい経験によって精神疾患を患ってしまった。Deadのあの良い意味でイカれた人間性は彼独自の精神性によって形成されたものであって、決してサタニズムという外部の思想の影響は受けていないだろう。もちろん、Deadも何かしらの要素に憧れを抱いていたことは事実なのだが、Mayhemという悪魔的ブラック・メタルバンドのボーカリストDeadもまた世間様から『誤解』されていたのではないかということもついでに述べておく。
この原稿を執筆している最中にも私は飽きもせずブラック・メタルを聴いてはいるのだが、やはりバフォメットやらペンタグラム、サタンなどが出てきたところでやはりこれは『エンタメ』であるという認識に留まる。さらに言えば、純日本人であり仏教徒である私にとってブラック・メタルを『本当の意味』で理解することは一生不可能なのだ。
それでも今日も私は、Hail Satan!と言うのであった。

2023年9月9日


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