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三島由紀夫から見た越路吹雪

1950年代にことであるが、結婚するんじゃないかという観測記事が雑誌に載るほど、三島由紀夫と越路吹雪は仲が良かった。
1953年9月、日劇で行われた越路吹雪帰国公演「ボンジュール・パリ」に三島は寄稿文を書いた。

日本人のシャンソン観について

越路吹雪のことを語る前に、三島は当時の日本人が持っていたシャンソンに対する間違った捉え方につき痛烈に批判している。

「日本では、シャンソンが一寸シックで高級だという偏見がある。」

この偏見は現在にまで続いているのではないだろうか。
シャンソン教室の発表会では、今でも綺麗なドレスを着たご婦人が登場する。シャンソンのお店でもドレスを纏う女性歌手は多い。受講料やミュージック・チャージもそれなりに高価で、敷居が高いと嘆く人もおられる。
フランスでは、もともと庶民の大衆歌であるシャンソンが日本ではどうして高級なのか? 三島の主張する偏見が続いているとしか言いようがない。

「(日本では)シャンソンはむやみに情緒的でホロリとさせる世話物じみた歌だという偏見もある。」

世話物とは、浄瑠璃や歌舞伎で演じられる、江戸のどこにでもいるような職人たや長屋の衆を主人公に事件や情事などに絡む物語だ。
今でも日本では、この世話物と同じようなストーリーをシャンソンに求める傾向が残っている。ある時、関西のシャンソン歌手が唄う「白いバラ」を聴いたが、文楽の母子物を思い出してしまったくらいである。

アプレ・ゲールのシャンソン

こうした日本人の偏見に対して、当時のシャンソンは違うと三島は言う。

「戦後のシャンソンは、むしろ明朗闊達、あけっぴろげの身も蓋もない、情緒もヘッタクレもないようなものが多いようである。」

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