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完全なる成功とは何か

MBAデザイナーnakayanさんのアメブロ:2014年12月4日付

本日は、渋沢栄一翁のお話をベースに「完全なる成功とは何か」というテーマで書かせて頂きたいと思います。実は、これは先日私がプレゼンをした際に使用したものの一部でして、プレゼンだけで終わらせてしまうのは少し勿体ないと感じましたので加筆をしブログ記事にさせて頂きました。


渋沢翁は著書「論語と算盤」にて、以下のように述べています。

「・・・目的を達するにおいては手段を選ばずなどと、成功という意義を誤解し、何をしても富を積み、地位を得られさえすれば、それが成功であると心得ている者もあるが、余はその様な説に左袒(さたん)することができない。高尚なる人格をもって正義正道を行い、しかる後に得た所の富、地位でなければ、完全な成功とはいわれないのである・・・」(「人格と修養-権威ある人格養生法」の項より)

注目すべきは、『高尚なる人格』。
このキーワードについては、先日私のtwitterにて以下のようにも述べさせて頂きました。

「先日耳にして以来、私の心に残っている言葉『勇ましい高尚なる生涯』。以前読んだ鍵山秀三郎さんの著書「凡事徹底」を読み返す中で、同じ言葉の引用が出てきました。以下抜粋、『・・クラーク博士の弟子の内村鑑三先生は、「人間が残すべき遺産とはなにか。金やものなど財産を残すことも意義がある。しかし、それは何人にもできることではない。何人にもできて、お金やものより価値のあることは、勇気ある高尚な生涯だ」と言われました。私は個人としては何の財産もありませんが、世の中に、自分の生き方、自分の商売という財産を残していきたいと頑張っております。』

(MBAデザイナーnakayanさんのtwitterより  https://twitter.com/happybongo/status/526688284957626368
 https://twitter.com/happybongo/status/526688371007946752 )

高尚なる人格』とは正に、内村鑑三さんの述べる、『勇ましい高尚なる生涯』であるとも言えます。


更に、渋沢翁は、

「・・・人の禽獣(きんじゅう)に異なる所は、徳を修め、智を啓き、世に有益なる貢献をなし得るに至って、初めてそれが真人と認めらるるのである。一言にしてこれを覆えば、万物の霊長たる能力ある者についてのみ、初めて人たるの真価ありと言いたいのである。・・・」(「人格と修養-権威ある人格養生法」の項より)

とも、述べています。これはとても儒教的思考が強い言葉であると解釈できます。何故、私がそう感じたのかということですが、森信三先生は儒教的思考について以下のように述べています。

「・・・われわれ東洋の天地にあっては、よしそれが人倫道徳の学といえども、その考察の対象としては、ひとり同類としての人間的領域を越えて、恩愛の情が禽獣の上にも及ぶのがその理想とせられるわけである。即ちまたそれだけ愛の博大なる充溢ともいえるであろう。だがこのようにわれわれの愛の発露は、ひとり対人的関係にのみ留まらないで、人間以下の生物にも及ぶべきだとするは仏教の教説であって、これとの対比からいえば、儒教の立場はそれとはややその趣を異にするものがあるというべく、否、考えようによっては、それは仏教とは正逆の立場にたつとさえ言えるであろう。人間以下の生物に対する態度に関して儒教の立場は、仏教のそれとはある意味で正逆ともいえるといったのは、そもそも何故であろうか。それは儒教の立場そのものが、元来人間本位の立場にたつ教学体系であり、随って儒教の教学の中に、一切有情に対する愛憐の教が力説せられていないというが如きは、むしろ当然というべきだからである。儒教の教学にあっては、それが人間本位観の立場にたつところからして、動物に対してはこれを憐れむというよりも、むしろ自己の内なる動物的なものを恥ずべきことが力説せられているともいえるであろう。即ち人は自己の内なる動物的なるものに対して恥じ、つねにこれを超克するところに、いわゆる克己の徳は養われるというのである。・・・」

即ち、要約すると「自己の内にある動物的なるものを恥じ、超克してこそ克己の徳が養われるというのが儒教的思考」であると言っている訳です。それを、踏まえた上で、安岡正篤先生の言葉を見てみましょう。

「・・・すべて生きんとする意志は、いう迄(まで)もなく人生の原動力である。 然(しか)しながら、ただ生きようとするだけではまだ動物的境界に過ぎない。 人格に於(おい)て、始めて如何(いか)に生くべきかの内面的要求を生ずる。茲(ここ)に人にのみ許された至尊なる価値の世界-法則の世界-自由の世界があるのである。・・・ 」

要約するに、「ただ生きようとするだけでは動物と変わらないのだ。動物のままであってはいけない。如何に自らを修養し生きるかを定められることは、人間に与えられた特権である」という訳です。

では、動物的境界を超え、真人と認められるためにはどのような修養をすべきなのでしょうか。これに関しては、渋沢翁が「『論語と算盤』、人格と修養-修養は理論ではない」の項で以下のように述べています。

「・・・修養はどこまで行らねばならぬかというに、これは際限がないのである。けれども空理空論に走ることは、最も注意せねばならぬ。修養は何も理論ではないので、実際に行なうべきことであるから、どこまでも実際と密接の関係を保って進まねばならぬ。・・・」
「・・・ゆえに修養を主とする者は、大いに爰(ここ)に鑑みる所があって、決して奇矯に趨(はし)らず、中庸を失せず、常に穏健なる志操(しそう)を保持して進まれんことを、衷心(ちゅうしん)より希望して止まぬのである。換言すれば、今日の修養は、力行勤勉(りょっこうきんべん)を主として、智徳の完全を得るのにある。すなわち、精神的方面に力を注ぐとともに、智識の発達に勉めねばならぬ。しかして修養が、単に自分一個のためのみでなく、一邑(ゆう)一郷、大にしては国運の興隆に貢献するのでなければならぬ。・・・」
「・・・修養とは身を修め徳を養うということにて、練習も研究も克己も忍耐もすべて意味するもので、人が次第に聖人や君子の境涯に近づくように力めるということで、それがために人性の自然を矯めるということはないのである。つまり人は充分に修養したならば、一日一日と過ちを去り、善に遷りて聖人に近づくのである。・・・」

これらを、おおまかに要約しますと以下のようになります。

自分を磨くことは理屈ではない。実際に行なうべきこと。どこまでも現実と密接な関係を保って進まなくてはならない。
極端に走らず、中庸を失わず、常に穏やかな志を持ってすすむべきである。精神面の鍛錬に力を入れつつ、知識や見識を磨き上げていくこと。
「練習」「研究」「克己」「忍耐」理想の人物や、立派な人間に近づけるように少しづつ努力をすること。


更に渋沢翁は、修養に関して、端的に表した言葉として、「神君遺訓(徳川家康公遺訓)」を紹介しています。ここには、渋沢翁の仰りたいことが全てが込められているように私は感じます。

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なく、心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。勝つことばかり知りてまくる事を知らざれば、害その身に至る。おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるにまされり。」 (「人格と修養-修養は理論ではない」の項より)

現代語訳すると以下のようになります。

人の一生は、重い荷物を背負って、遠い道のりを歩んでいくようなもの、急いではならない。不自由なのが当たり前だと思っていれば、足りないことなどない。心に欲望が芽生えたなら、自分が苦しんでいた時を思い出すことだ。耐え忍ぶことこそ、無事に長らえるための基本、怒りは自分にとって敵だと思わなければならない。勝つことばかり知っていて、うまく負けることを知らなければ、そのマイナス面はやがて自分の身に及ぶ。自分を責めて、他人を責めるな。足りない方が、やりすぎよりまだましなのだ」(守屋淳著「現代語訳 論語と算盤」より)


これを更に分かりやすくするならば、坂村真民さんの詩が良いのではないでしょうか。

中年の人よ
 自己と戦え
 孤独になれば孤独と戦い 
 名声を得れば名声と戦い 
 いつも手綱を引き締めよ 
 不遇だった時を忘れるな 
 貧乏だった頃を思い出せ 
 つねに謙虚であれ 
 奢りは悪魔の誘いだと思え

最後に、もう一度。

高尚なる人格をもって正義正道を行い、しかる後に得た所の富、地位でなければ、完全な成功とはいわれない。



中山兮智是(なかやま・ともゆき) / nakayanさん
JDMRI 日本経営デザイン研究所CEO兼MBAデザイナー
1978年東京都生まれ。建築設計事務所にてデザインの基礎を学んだ後、05年からフリーランスデザイナーとして活動。大学には行かず16年大学院にてMBA取得。これまでに100社以上での実務経験を持つ。
お問合せ先 : nakayama@jdmri.jp

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