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幸せの基準

普段あまり考えない事だけど、目が見えて耳が聞こえることは幸せなのだろうか。
どちらかが欠けたら、不幸せな人生なのだろうか?

今は昔、私がまだ日本の旅行会社に勤めているときの出来事である。

月に何度か私を訪ねてくるお客さんがいた。
そのお客さんは生まれつきの聴覚障害者で、身体障害者手帳で割引が適用になる旅行に頻繁に出掛けていた。
各地の温泉宿に泊まるのが好きで、ときには同伴者の彼女を連れて宿泊予約に来店していた。
そのお客さんは一切耳が聞こえないので、私とのコミュニケーションは基本的に筆談であった。
私は毎回、白い紙とペンを用意して待っていた。
そのお客さんは、いつもニコニコ笑顔で筆談ながら冗談を言って私をゲラゲラと笑わせてくれたり、簡単な手話を教えてくれた。
同伴者の彼女も同じように聴覚障害者で、いつもニコニコと楽しそうにしていた。
聴覚障害者には居るらしいと聞いたことがあるが、そのお客さんも綺麗な青い瞳をしていた。
私は毎回この二人のお客さんが来るのを楽しみにしていた。

ある時、少し年配の男性がお店にやって来た。
私に宿の予約を頼みたいとのことだった。
お勧めの宿や旅行プランについて何度か話をしたが、その方はいつも不機嫌だった。
私としては出来るだけ希望を聞いているつもりだったが、何か気に入らない様子で、ある時とうとう大きな声で怒鳴り始めた。
「俺は聴覚障害者だ!補聴器を着けているから聞こえるから健常者に見える!でも、身体障害者手帳だって持っているのに誰も俺を理解しない!!耳が不自由な苦労などお前にはわからないだろう!!」

私は何か障害があろうが無かろうが、差別したりしない。
そのお客さんは、私がそのお客さんを身体障害者として特別扱いしない事が不満だったようだった。

私の叔父(父の弟)はもう亡くなっているが、幼少期に何度か会ったことがあった。
叔父も先天性の聴覚障害者だった。
子供の頃はこの叔父がなぜ喋れないのか不思議で仕方がなかった。
でもすぐに慣れて、優しい叔父に絵を描いてもらったりして楽しく過ごした思い出がある。

耳が聞こえないという事は、確かに不便な事であるとは思う。
大学時代の私のクラリネットの先生も片耳が聞こえない。
後天性なので徐々に聞こえなくなったようだ。
その事を知らない人には、この素晴らしいクラリネット奏者の片耳が聞こえていないとは想像もつかないだろう。
ただ、今回のコロナでリモートでアンサブル演奏する時は片耳にイヤフォンをすると自分の音が聞こえなくて苦労していると苦笑いしていた。
「僕はプロ奏者だからね、こんな時でもちゃんとプロの音を出さなくちゃいけないんだよ」

私は普段の生活には支障が無いが、右耳の聞こえが悪い。
幕が張ったような、耳の前に紙を隔てたような感じで、聞きづらい音がある。
子供の頃、腕時計の秒針の音が右耳だけ聞こえない事に気がついた。
小学生の時の夏にプールに行き過ぎて、中耳炎になった時か病気をした時かの際に耳管の一部が塞がってしまったらしいと診断された。
空気が通りにくいので、スキューバダイビングで耳抜きがしづらく、海から上がってくると鼻血がスーッと出てくる事があった。
体調が悪いと右耳が聞こえが悪くて、自分の音が遠くに聞こえる事はあるが、生活に支障は無い。

青い目の聴覚障害者のお客さん達や、私の叔父、私の恩師はみんな耳が聞こえない事で苦労していたと思う。
でも、みんな明るかった。
とても穏やかな人たちだ。
自分の好きな事を楽しめる人たちだ。

補聴器を使えば耳が聞こえるお客さんは、耳が聞こえる事は幸福なのではなく、自分に障害がある事を分かって貰えないことが不幸なのだった。

私は自分が幸せでは無いと感じる時にはこの事を考える。
自分が持っている幸せの数を数えて、それでも落ち込んでいるときもあるけれど、いつも心穏やかでいたいと思うし、私が穏やかだと他の人も犬さえ穏やかでいられるのだ。

最近好きな言葉は
When one door closes, another one opens.




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