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『い~い湯だな』

昔々、明治時代のお話。
まだ東京でも自然がたくさん残っていて、田んぼのあぜ道や畑や林や竹藪の道が普通にあった頃。
ある一人の大地主の男がおりました。
名前を、長三郎(ちょうざぶろう)と言いました。

今夜、村の長をしているこの長三郎は、夏祭りの内容を決めるための寄り合いに参加しました。
普段からお酒が大好きな長三郎。大義名分のもと、たいそうたくさんの美味しいお酒を飲んだのでした。
「今夜の空はきれいだなあ」
家まで送って行こうと言ってくれた人々の手を遮り、ひとりで夜道を歩くことにしました。
あっちに行ったり、こっちに行ったり。
千鳥足で砂利道を歩いていると、蛙たちの合唱が心地よく耳に入り込んできます。
「風が気持ちいい。とても良い季節だ」
歩き慣れた道。
あと十分も歩けば、家族が待つ我が家の門が見えてきて番犬のエスが吠える声が聞こえてくるだろう。

と、足を止めました。
とても美味しそうな匂いがするのです。
それに、にぎやかな笑い声が聞こえました。宴会でしょうか。
お皿がカチャカチャしている音や、小気味いい三味線の軽やかな音色で盛り上がっているのがわかりました。
「はて。こんな所にこんな店があったかな」
そこには立派な料亭のような建物があり、
藍染の暖簾がはためいて、形のいい葉が描かれた提灯がかかっていました。
「気が付かなかったなあ」
この道を歩くのは二週間ぶり。でも、そんなに短期間で新しい店が新築されるわけがありません。
前からあったけれど気が付かなかっただけなのでしょうか。
それにしても立派な佇まいで、不気味には思いましたが長三郎はどうしても中に入ってみたい衝動にかられたのでした。

その時です。
「ビュウ」と、鋭く強い風が長三郎の目の前を吹いた、というよりも横切りました。

「いらっしゃいまし~」
後ろから聞こえたような気がして一瞬店から目をそらし振り向きます。
暗闇が広がっている竹林のそこにはいないことを確認してから、もう一度正面に目を戻しました。
すると、仕立ての良い茶色い縦縞の着物を着たおたふくのような女が、
奇術のように店の前に立っていました。
引き戸が開く音も何もしなかったように思いますが。
「どうぞお客様。こちらへ~」
「いや、そういうつもりで立っていたのではないよ。とても素晴らしい建物だったものだから見惚れてしまって。もう今からでは遅くなってしまうからまた日を改めさせていただくよ」
「あら、ダイジョウブですよ。まだ9時前ですから~」

そうだったでしょうか。
寄合所で皆と解散したのは、午後九時をとっくに過ぎていたような気がします。
几帳面な長三郎は、夜道を歩きだした時に修理に出したばかりの懐中時計で確かめたからそんなはずはないのだが、と思いました。
「まあ、お客様酔っていらっしゃる。とても楽しくお酒を飲んでいらっしゃったのですね。でしたらお風呂だけでもお入りいただけますので、よろしかったらお家に帰る前にさっぱりしていかれたらいかがですか~?」

女将の言葉を聞いたと思ったら、もう長三郎は素っ裸にふんどし姿でした。
いつの間に脱がされたのでしょう。
『男湯』と書いてある暖簾をくぐります。
「ここからは女中たちがお世話いたしますので、どうぞごゆるりと~」
たくさん湯気が立ち込めて、温泉のような硫黄の匂いがいたします。

「お客様、いらっしゃいまし~。お背中お流しいたします~」
可愛らしいふくよかな若い女二人。
赤い花柄の着物の両腕を紐でたくし上げて、せっせとお湯をかき混ぜています。
「こちらは特別なお風呂なんですよ~。わざわざ名湯草津から取り寄せている、湯の花入りの温泉なんです~」
先ほどから女たちが語尾を伸ばすのが気になるが、なるほどいい湯だ。
「い~い湯だなあ」
「そうでございましょう~、そうでございましょう~」
なんとも風情のある露天風呂でございました。
夜空は、雲一つない漆黒の闇に星がたくさん瞬いておりました。
このころの東京はまだ空気が綺麗でしたので、見事なプラネタリウムのように星座を楽しむことができたのでございます。

「は~、久しぶりの温泉だなあ。生き返る」
長三郎は肩に湯をかけながら、目を瞑りました。
今日は美味しいお酒も飲めて温泉にまで浸かることができて、なんとまあ
贅沢な一日だったことでしょう。
夏祭りが楽しみだ、そうだ、この店の皆にもきっと参加してもらおう。
お風呂から上がったら聞いてみようかな。長三郎はそんな風に考えながら温泉で一人、夢見心地でうつらうつらしていました。

「お~い、長三郎さ~ん。何してんだ~!」
「おいこりゃ大変だ!みんな来てくれ!」
「うわ!ひでえな、こりゃ」

どこかで聞いたことのある声が、ワイワイガヤガヤと近づいてきます。
そうです。さっきまで一緒にいた村のみんなです。
長三郎は大きな声で呼びました。
「おっ、こっちこっち。みんなも入りなさい。とてもいい湯だよ。なんたって名湯草津の湯だよ」

空はうっすら桃色で、すでに夜明けの時間。
たった数十分と思っていた時間が、数時間も経っていたのでございます。
会議がとっくに終わっているのにいつまでたっても帰ってこない長三郎を心配した妻のミチコが、村のみんなに頼んで探してもらっていたのでした。
やっと発見したと思いましたら。。。
まったく汚い話でございますが、何もない田んぼのど真ん中で一人、
長三郎は肥溜めの中にどっぷりと体を沈めて
「い~い湯だ、い~い湯だ」
とさかんに申していたのでございます。
多分狸か狐の仕業でしょう。
お土産にもっていた会合で食べた残りの「おいなりさん」も、懐中時計も、
全てがすっかりどこかに消えていたのでございます。

「一回池に突っ込まなきゃ、いきなり洗うとバッチイな」
我に返った長三郎は、村のみんなに素っ裸のまま自宅の池に落とされて、
大笑いされたのでした。
汚いものは、池の鯉が食べてくれたそうでございます。

皆様も、酔った帰り道はよからぬモノに化かされるかもしれませんので、
何卒お気を付けくださいませ。


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