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『みどりの秘密』

わたしには秘密がある。
夫には結婚前に煙草はやめたと伝えてあるが、本当は違う。
イライラした時、特に同居の姑の嫌味や仕草が鼻につくとパート帰りに吸いに行く。
生活圏から少しだけ離れたコンビニの前。
煙草が嫌われ者になった最近では,
もう「吸い殻入れ」を置いてくれている所は少ないが、
ここだけはいまだに置いてくれている。
知り合いにあまり会わないので助かるし、目の前に公園があって保育園児たちが無邪気に遊んでいるのが見えて、心が洗われるのだ。

「あら、みどりさん煙草臭い」
姑はわたしが家に帰ると玄関で待ち構えている。そして、決まってこう話しかけてくるのだ。
だからわたしはいつも、こう答える。
「ああ、そういえば駅前の喫煙所の前でしばらくママ友とお話したから、臭いがうつっちゃったのかもしれませんね」
姑は、しばらくわたしの顔を充分な時間をかけてじっくりと眺めてから、
「そうなの」
とだけ言って自分の部屋へ戻って行く。
あんなに見つめておいてそれだけ言うところがまたコワイ。
認知症認定を受けているので間違いないのだが、たまに鋭い正気の目をするので疑っているところもある。

高校生の息子はひどい反抗期こそないが、会話は少なくなった。
スマホに恋をしているのだろうかと思うほど、わたしを見るよりもスマホに目を落としている時間の方が多いだろう。
わたしという存在は、今はもう彼の中にいないかのように。。。
さみしい。

夫は仕事が忙しくなるとイライラして、所構わず癇癪を起すことがあるのが面倒臭い。
正直もう20年近くの付き合いなので慣れた部分はあるのだが、わたしも調子が悪い時などはうまくかわすことができずに喧嘩になることがある。
疲れる。が、さみしくはない。

そんなわたしのもう一つの秘密はブログ。
家族の誰にも言っていない、世間とわたしの交換日記のようなものだ。
家族が寝静まった深夜から始まる密会。まるで不貞行為をする人妻の気分で、知らない人たちと意見を求め合うのだ。
開始から2年、おかげさまでフォロワーはもうすぐ1万人を超える。始めた当初はここまで読んでくれる人が増えるということを期待していなかったのだが、予想に反して更新を待ち望んでくれているようだ。
ブログの名前は、『魔女のTEA PARTY』。
お茶でも飲みながら、この世のむかつくことや嫌なこと、気になることや苦しいこと許せないことを共有して、魔女と一緒に念を送って悪い奴を成敗したつもりになろう!というもの。
名前の割にはブラックな内容なところが面白かったのか、よくわからないタイミングで急にバズった。
最初はフォロワーも増えて嬉しくて、日頃のストレスを忘れるいい気分転換の場所だと気軽に考えていた。
が、最近フォロワーからの言葉の圧力で起こってきた。
更年期障害ではない、体の異変。

体中に力がみなぎり、深くどす黒い呪いのようなものが血管を駆け巡る。目は地球の裏側を見通せるのではないかと思うほどはっきりと物事を映し、手は指先だけで雲を動かせそうな不思議なパワーを宿した。

ある日、姑は言った。
「あんた最近、魔女みたいだね」
それだけ言うと、おびえたように踵を返して部屋に戻っていった。

わたしにも何かできるかもしれない。
本当に、みんなの気持ちを体に纏い、
みんなが願うわたしになれるかもしれない。
魔女に、なれるかもしれない。

そんなある日の電車の中。
まだ薄明るい時間の夕方の電車は学校帰りの生徒や学生が多い。
座れる座席もなく、仕方ないのでドアの近くに立ちながら窓の外を眺めていた。
夕日に光る川の水面に、細かく白い光が走るように見える。
今日も疲れたし、きっと明日も疲れるんだろうなあ。
また一服してから家に帰ろうと考えていた。

「社会が悪い、親が悪いんだ!」
顔面蒼白でそう叫びながら、車内で包丁を振り回す痩せた男。
物語の悪者みたいにふざけたセリフを堂々とのたまいながら、その20代前半のような男は車内を自分のステージのようにして悪魔のダンスを踊っていた。
最初はリアリティがなかった乗客たちは、ただ事ではないことに気づいた途端に悲鳴を上げながら逃げ惑った。
たまたま蹴躓いたおじいさんを、容赦なく男は蹴り飛ばした。
それを目撃したその時に、ふいに湧き出してきた自分の体の奥底に隠していたわたしの本能。

「社会が悪いかもしれない」
みどりは、一歩前に踏み出す。
「時代や親が、周りが助けてくれないことが悪いかもしれない」
男の方へと近づいていく。

「でも、自分を自分で追い込んで」
男は叫びながら、目の前にいた逃げ遅れた女子高生のカバンを取り上げる。
「自分だけがこの世の中でたった一人人生がうまくいかないなんて絵空事で人のせいにするような」

男は女子高生の背中を包丁で突き刺そうとした。
「お前みたいな身勝手で幼稚で悲劇のヒーロー面したわがままな奴が」
みどりは包丁を持つ手首を掴むと、男は驚いたように振り向いた。
「わたしは許せないんだよ!」

みどりは右手に力を込めて、刀のように固くした。
すると腕は真っ黒な龍になり、勢いよく男の体に巻き付いた。
下から上へと絞るように男の体を握りしめ、より一層その力を強めた。
火を吐き、今にも男に食らいつきそうだ。

「お前のようなクズ野郎は、地獄に墜ちてしまえ!」

みどりの声と共にパックリと開けた龍の口の中は、ブラックホールのように漆黒の闇だった。
「わたしの、心の中みたい」
寂しく微笑んだみどりの右手の龍は、男の体を散り散りにしてから姿を消した。

肩が揺れる。激しく揺れる。みどりの体には、世界中の人々の念が充満しているように感じられた。
手を翼のように広げ、天を仰ぐ。
穴が開いた電車の天井からは、血のような真っ赤な空が顔をのぞかせた。

「わたし、本当に魔女になったんだ」

                           おしまい


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