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心から音を楽しめるようになった自分が好きです。

自分でもいつからなのか覚えていない小さいころから、音楽を聴くときにじっとしていられない。
一番動いていたのは人差し指。小さいころは机が、大人になってからは車のハンドルが、わたしのドラムになった。
ドラムの音を無意識に聴きとっていた。

頭もよく動く。足も、肩も。
ライブではずっと動いている。一つの音も逃さない、頭も、足も、肩も、腕も、指も、今は。


2歳くらいのころ、わたしはピンク・レディーが流れると踊りだしていたらしい。純粋に音を楽しんでいたころ。

いつからだろう、わたしは人の目が気になる子になり、自分をおさえる子になっていった。
そして、大人になってもそれは続き、音を楽しむことにも遠慮がちだった。


弟が生まれて、彼が知的障害をもつことがわかり、大人たちの目も、まわりの同世代の目も弟に注がれるようになった。
「〇〇くんのお姉ちゃん」と呼ばれることが増えていった。

小学校高学年のころから胸も大きくなって、男子の、男性の目が気になるようになった。

「き」と「け」の発音がうまくできなくなった。聞き返されることが増え、自分の名前も嫌いになった。

授業中に手をあげることも恥ずかしくなった。文化祭では裏方に徹した。


そんなわたしが人の目を気にせず暮らせたのはオーストラリアだった。
着たい服を着て、したい髪型になり、語学学校でもクラスメイトや先生たちとコミュニケーションを積極的にとった。
オージーの友達と毎週末のようにクラブへ行った。
だが、踊るときだけは、やっぱり人の目が気になって、身体を揺らすだけだった。お酒の力をかりて、少し踊ってみるときもあったけど。

娘が幼稚園に通うころスティッチが流行り、「フラダンスやりたい」と言いだした。
それから親子で通うことになったフラダンス教室。
いつのまにか、娘より自分が熱を帯び、ハワイ語の単語を勉強したり、松葉杖のときもレッスンに行ったり、ハワイアンコンサートの舞台で踊るまでになった。
センターで踊らせてもらうこともあった。しかし、心からの笑顔で踊る日はこなかった。
緊張もあったが、やはりまだこのときも、まわりの目が気になる小心者だった。
振りはきれいにできたって、心からの笑顔で踊る人には勝てない。
勝てないってなんだ、もうそこからダンスをする意味が違っている。


ライブに行っても、やはりまわりの目が気になって、楽しいし、音楽に満足していても、身体は不完全燃焼だった。

だからだろうか、大きく動きたい気持ちと裏腹に、人差し指はせめてもの音への愛を小さく、だがしっかりとリズムをとって表していたのだろう。



いつか読んだ星野源の言葉が、わたしに音への身体の解放を与えてくれた。
うる覚えだが、「日本の観客は同じ動きをする。自分が感じたように踊ればいい」というようなことを話していた。
そうだ、自分を解放しにライブに来ている。まわりがなんだ。
同じように生きたいのか?
わたしは彼のライブで、自分が感じたまま、身体が反応するまま、終演まで動き続けた。
それは楽しく、より彼の音も声も感情も感じられ、大満足だった。わたしは心から笑っていた。


それからのわたしはライブを思う存分楽しめるようになった。アドレナリンが出ているのだろう、いつもの自分では考えられないほど動いている。一番元気なわたしが見られるのは、ライブ参戦時だ。

若い子に混ざって大声で叫び(今はできない)頭を振りまくる楽しさを教えてくれたOKAMOTO'S。

そして、「飛べ!」と言われなくても、『Flash !!!』のドラムが始まると、足首まわしてこっそり準備運動をはじめ、手を上げて飛びまくる、わたしを解放してくれるKing Gnu。

密かに期待しちゃいないかい?
思い通りにいきやしないぜ?
やるせないね
それでも主役は誰だ? お前だろ
輝けるんだ、いつだって思いのままに

King Gnu『Flash!!!』

心に突き刺さる。

主役は誰だ? お前だろ


ライブ中、わたしはよく目を瞑り、音に集中する。
身体が動きたいように、遠慮せず、動くことを許可する。
人のこと気にしていたらもったいない。
自分が主役で、音を楽しむ。

そんな自分が、昔よりちょっと好きになった。








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