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山の日はお盆直前、この日は特別な日かも。(縁と運#51)

山の日の制定はお盆休みを長く取るようにという国の戦略の一つでした。
当初は12日にという案が出ていましたが、12日は不幸な事故が起こった日だったので、それは避けようということで、11日になったのです。

お盆の頃は、いろいろとうごめくように感じます。霊の存在のあるなしは別にして、お盆は先祖供養をする習慣(週間)です。先祖霊がこの世に帰ってこられる唯一のときです。その時に生きている子孫たちは先祖霊を迎い入れ、感謝し、親類縁者が集まってお祝い(供養)をするという風習だと思います。

今私たちが生きているのは、数知れない先祖の方々がいたおかげです。

これを忘れないためにもお盆があると思います。

ところが、自分が良ければそれでいい、先祖も子孫も関係ないね、と思いながら生きていますと、先祖たちが悲しむわけです。供養されたい(かまって欲しい)のになされないのは寂しいのです。

お盆には、いつも感謝され供養を受けている霊たちも、浮かばれない供養されない霊魂たちもこの世に出てくることを許され、子孫たちに会いに行くのです。

さあ、子孫たちのところへ帰れる先祖霊は子孫とともに楽しめます。
しかし、帰ることのできないものたちもいます。迎えてくれないから放浪してしまうのです。そして、だれかれにしがみつこうとします。自分に気づいて欲しい、少しでも思い出して欲しい、供養されたいという霊たちはもう誰でもいいのです。けれども、ふだん供養をしていたり、仏壇に手を合わせていたり、いつも感謝している人々には近づけないのです。だって先約の先祖霊たちがもう来ているからです。

生きているものも同じようですね。思ってくれない、気づいてくれないのは、とても辛い。ここにいるのに愛してくれない。かまってくれない。もう生きる者も霊魂も同じような感覚なのだと想像します。


昔から、お盆は足を引きずられ、あの世に連れて行かれるから泳いではいけないとか、川で遊ばないとか言われています。大勢が休暇を過ごすために事故が起こりやすいとも言えるのですが、実は悲しむ霊たちがしがみつくからだと考えてもいいのではと思うのです。

ぼくは昔から、お盆はおばあちゃんの家に行って、親戚が集まってお祝い(供養)をしていました。仏縁も神縁もありました。だから今でも、なるべくお盆は家にいずとも、御先祖のことを考え、感謝して過ごすようにしています。

信じるとか信じないとか、そういうものはどうでもいいのです。ただ、綿々と連なってきた自分の命は、父母、おじいちゃんおばあちゃん、ひいじいひいばあ、それより過去の先祖たちがいたからです。

普段からの感謝があれば一番良いとは思いますが、お盆や命日は御先祖の存在を気にして、感謝の気持ちを捧げるのは、自分の心や精神を安定させると思います。

山の日はお盆の前段階の日です。

この日に生まれたのも、縁があったからかも。

久しぶりの縁と運の記事でした。

今日はここまで。

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