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【夜のとばりが降りる頃に】

「死にたい」
いつも塞ぎがちな彼女が、泣きながら呟いた。潤んだ瞳に力はなく、その視線は僕ではなく、宙に投げられていた。何百回目の「死にたい」だろう。これまで僕は、その言葉を受けては励ましたり、そんなこと言って悲しませるな、と怒鳴って見たり、ただ純粋に聞いてみたりと。色々して、その日は泣き止ませさせることができた。
でも次の日になれば泣き続けるばかりだ。でも諦めるわけにはいかない。今回は言葉に依らず、聞くに依らず、そっと手を握りしめてみる。彼女の小さく、冷たく、力のない、その手を。
もちろん向こうから握り返すことはない。彼女は僕の手にどれだけの温度を感じているのだろうか。この右手に込められた精一杯の気持ちを受け止める余裕もなく、ただただ嗚咽を漏らす彼女を見ていると、すこぶる悲しくなる。握り返さないでいてくれてもいい。ただ、彼女の疲れ、乾ききった心を思うと悲しいんだ。うん、悲しい。
「ごめんね、いつもいつも」
わなわなと唇を震わせながら、ようやく僕を見つめる彼女。頬には一筋の涙が流れる。部屋を照らす月明かりにそれは輝く。いいんだよ、と手を強く握りしめる。わっ、と驚き、反射的に僕の手を離す彼女。強かったかな。ごめんなさい、と申し訳なさそうにうつむく。
「ううん、こっちこそごめん。僕は大丈夫だよ。君のそばにいられればいい」
再び泣き出し、僕に抱きつく彼女。こちらからは表情は見えない。今度は言葉で伝えることができた。僕の精一杯の気持ちを。もちろん、受け止めてもらわなくていい。少しでも、ほんの少しでも心が軽くなればそれでいい。一瞬でも安心してもらえれば、それでいい。好きな気持ちというものは、ただただそっと差し出すものであるべきだと僕は思う。そこに見返りを求める心などあってはいけない。僕が彼女を好きなのも、彼女に気持ちを向けるのも、あくまで僕が勝手にやっているだけの行為なんだ。うん。
「ありがとう」
僕の耳元でささやく彼女。表情はわからない。でも僕を抱きしめている両腕にはさっきより力がこもっている。彼女の腰にそっと手を回し、僕も抱きしめる。今度は大丈夫だろう。
「こちらこそ、いつもありがとう」
背中をさすると、少し安心したように息をつく。泣き止んだみたいだ。よかった。
「ありがとう」
泣きすぎたのか、かすれた声で小さくつぶやく彼女。
彼女はいつも夜になったら、辛いことを思い出した、と泣き始める。何を思い出して泣いているのかは教えてくれない。でも相当深刻な経験だったんだ、とは察しがつく。だから彼女が話してくれるまではずっと待つつもりだ。いや、話してくれなくてもいいのかもしれない。彼女が僕を必要としてくれるなら。僕の言葉に安心してくれるのなら。
「大丈夫だよ。大丈夫」
再び背中をさすり、彼女を抱きしめる。この程度じゃ、彼女の不安は拭えないのだろう。むしろ拭うのは到底不可能だろう。
深い悲しみを抱える人を変えられる、だとか助けられるなんて簡単に思うべきじゃないんだ。どんなに寄り添っても、歩み寄っても僕らは分かり合えないまま、重なり合えないまま、平行線をたどるだけだ。解決はできない。今の彼女を見て僕はそう思う。仮に彼女が打ち明けてくれても、解決は僕にはできない。いつになっても、僕のできることなんてたかが知れている。それは凄く残酷で、しかし紛れも無い事実だと思う。

それでもわかりあいたいと思うことが重要なんだ、と僕は思う。

だから僕はずっと向き合うつもりだ。彼女の心と、傷と、そして僕らの未来と。


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