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TKGにおける流儀は十人十色

今は糖質を制限してるダイエット中なので食べることが出来ないが
とても美味しい方法があるのでこの機会に是非聞いてもらいたい
TKG(たまごかけごはん)誰がそう呼び始めたのかは分からないが
私の中では10年前くらいからこの言葉で定着している
生卵が安心して食べられるのは日本くらいだと知った
外国では加熱して食べるのが一般的らしい


私は白米がとにかく好きだ。若干固めが好きだ。
その方が卵が絡んだ時に程よい口当たりになる。
まず大きめのお茶碗に多めにご飯を盛ります。
別の器に卵を割り入れます。
卵白と卵黄が完全に混ざるまでしっかり混ぜます。
ここでゴマ油を1滴だけ入れます。
軽く混ぜてからそろりとほかほかご飯にかけます。

これだけでも充分に美味しい。
だけど、少し塩分が欲しい時にはお醤油を入れる。
湯浅の醤油蔵で買っている刺身醤油が本当に美味しい。
今はもっぱらキッコーマンのお醤油の薄口だ。

独身の頃は初めのは本当に貧乏だったが生活にゆとりが出た頃には
食生活から変わっていった。そして家電をそろえた。

親を大激怒させて実家を飛び出して他県へ就職した。
専門学校に進学するときに就職先は実家から通える場所にするという条件をあっさりと破った。一度は実家から通える就職先に就いたもののそのNPO法人と揉めまくり怒鳴りあって、最後は保険証を叩きつけて辞めた。

そして次の日にはハローワークに仕事を探しに行き、就職する場所を見つけた。面接も引っ越し先も親に何の相談もせずに決めた。
面接の後、少し待つように指示されて人事担当の人が戻ってきて「内定」が決まった。帰り道、在来線で立っていると「これから育った街から離れて暮らして、きっと帰れない。」そんな予感がした。ボロボロと泣いていた。

前に座っていたサラリーマンのおじさんが「大丈夫?体調悪いの?座りなさい」と席を譲ってくれた。「大丈夫です、すみません。ありがとうございます。」と言ってティッシュをくれて「次で降りるから…」と言って一度は降りたと思ったが隣の車両に移動していた。

両親に完全に事後報告で転職することを伝えた。
私が親でも激怒すると思う。

そのせいで引っ越しの時の引き渡し確認ですら立ち会ってくれなかったため
バイクは自走で引っ越しのトラックを追いかけることになった。

荷造りをしている時、本や服をダンボールに詰めて
当面の日用品に困ると思いこっそりと洗面所やストック品をダンボールに入れていると、父が背後に立っていて「持って行くな。自分で揃えろ、実家にいない奴のための物品じゃない。この泥棒め」と言われた。

出発する時両親は家を出る時にも顔を見ないままだった。
祖母だけは泣きながら「元気でいなさい」と父に見つからないようにティッシュで包んだ万札を数枚渡してくれた。
その数枚のお札が初任給までの命綱になった。

敷金・礼金・はじめの家賃を払ってしまったら私の貯金は僅かなものになってしまった。どうしても苦しくなった時に実家暮らしの兄エッティに頼んで少しだけお金を借りた。
お金がない生活って本当に辛い。
家電がないのは不便だったし、夏なのにエアコンも使わなかった。
あるのは布団と私服とリクルートスーツ。

自分で買った化粧品とドライヤーに自室にかけていた寸足らずのカーテンだった。
もう一つ窓があり丸見えだったので、カーテンを買えるようになるまでは
引っ越し屋のダンボールを貼り付けていた。

引っ越してすぐNHKの集金がきた、どこから引っ越しの情報が漏れるのだろう。だがその時テレビが無かった。「受信料払うからテレビ買ってください」と笑いながら対応した。本当にテレビがないの?と部屋を見られた。
その時に荷物の少なさにNHKの集金のおじさんはギョッとしていた。
美しい暮らしじゃないミニマリストの生活そのものがそこにはあった。

幸い仕事がある日は社員食堂で昼食が食べられた。
1日の栄養分は昼食で補い、そのほかは生の食パンで飢えをしのいだ。
焼きたいがトースターが無かった。

しかも毎週末、勉強会や研修などがあり昼食が必要だった。
生の食パンを食べる姿を見て先輩にめちゃくちゃ心配された。
「賞味期限がやばくって」と笑っていた。
夜は飲み会があってその出費も痛かった。だけど新人の頃は断ることは出来なかった。そんなお金があるならお米が食べたかった。もうすでにまともな生活が恋しかった。

当たり前のようにしていた暮らしはとても贅沢なものだと思った。

初任給が出るまでの間、仕事を教えてくれていた先輩がタッパーに作りすぎたというおかずを持って来て「食べてくれたら助かるからあげるわ」と持たせてくれるようになった。帰りに給湯室に寄り電子レンジで温めて冷める前に帰った。ここの土地の人は温かった。

同じ部署の先輩たちは縁もゆかりもないこの県に就職した私のことをはじめ訝しんでいた。だけれど優しくとても親切だった。

洗濯機がないので石鹸で洗った、とても平成後期の新入社員の生活とは思えない。あと液体洗剤は高いのだ。
コインランドリーにまとめて持って行くほどのブラウスは持っていなかったので毎日シャワーを浴びるついでに洗濯も済ませていた。
ストッキングも絶対に伝線させないように細心の注意を払った。

激安の量販店に行き、聞いたことのない謎のブランドの激安リンスを買い、謎の化粧水を使った。

朝夕もお米が食べたかったが炊飯器も電子レンジもなかった。
調理器具もない。これではレトルトのご飯パックすら食べられない。
自炊したくとも出来ないTKGも食べられなかったのだ。

お給料日が3回くらいあったあとに、やっとジャンク品で安く家電を買える店を教えてもらって洗濯機と冷蔵庫が仲間入りした。車が無かったがその頃には職場の先輩たちと随分親しくなり軽トラを出してもらった。季節はもう冬になっていた。クレジットカードの審査もすんなり通った。まとまったお金が出来たら定期に入れるようにしていた。

買い物の時に消費税まで計算して頭を悩ませながら必死に考えることがなくなり、値段をあまりに気にせず好きなものを買えるようになって嬉しかったのを覚えている。

その年の年末のボーナスは途中入社のため満額は出なかったが明細を見て震えた。毎月頂ける賃金の給料袋とは違う豪華な袋に入っていた。
この気持ちを忘れないようにと、明細を保管してあるフォルダの表紙裏に貼っておいた。

まずボーナスというシステムに驚いた。正社員バンザイ。
そして現金書留で祖母にお金を返し手紙も入れた。
その年の忘年会では行ったことのないようなホテルのコース料理だった。
社会人って1年に1度、こんなご褒美があるんだと感激した。

正月は帰れなかった。まだ両親に合わせる顔がなかったし、父に背後から泥棒と言われたことを根に持っていた。
父や母のLineや電話はすべて無視していたが、祖母からのメールは3秒で返していた。母から「連絡が取れないのでそちらの警察に通報します」と脅しのLineがきた。それも無視していた。

本当に心配なら会いに来ればいいと思っていた。それくらい傲慢に思っていたし両親とは大きな溝があいてしまった。
この頃、もし祖母が死んでしまったらどうしよう…という夢をよく見て何度も飛び起きた。祖母だけが私と実家を繋ぐ細い糸だった。

その数年後に母と和解し、帰省した時に父とも割と自然に和解した。
帰り際に父はお気に入りの入浴剤や名前入りのボールペンをくれた。
替え芯が高けぇよ…と思うが書き心地が良いので大切にしている。



働き始めて何年も経ち、貯金もそこそこたまった頃に車を購入した。
一括払いで購入した車は私の生活を変えてくれた。
家電もパン作りにハマってホームベーカリーを買ったし、バリスタも購入した。ゲーム機もBlu-rayレコーダーとパソコンや周辺機器も買えるようになった。

毎朝、バリスタで淹れたコーヒーをスタバのタンブラーに入れ替えて、車で飲みながら出勤した。生の食パンじゃなくて炊き立てのお米に塩を振った塩むすびに実家から貰った海苔を大胆に1枚大きく使えるようになった。
実家にも好きな時に帰れるようになった

食えなかった頃に助けてくれた先輩にもお礼が出来た。



そんな経緯があって私にとってTKGとはとても贅沢な食べ物だと思っている。

私にとってお米と醤油と卵は貴重な食材だった。

わざわざ買いにバイクを走らせられるのも
産直で籠に入っている新鮮な卵を買えるのも
後生大事にリュックサックに入れて割れないように
大事に大事に運べるのも
とても恵まれたことなのだ

お米を焚く炊飯器があること
わざわざ遠出して好きな味のいい醤油が買えること
黄身の色や餌にこだわった卵が買えること
当たり前ではない

いまでは当たり前のように毎日家族のためにお米をといで炊飯器にセットする。あろうことか毎日のことで面倒にすら思うことさえある。

結婚を機に5合炊きの炊飯器を購入した。
電子レンジもオーブン機能付きのものを購入した。
冬に食卓で囲むお鍋も買った。この鍋は1人では使わない。
これからの生活が変わると思った。

だが鍋や食器類は今もあの頃苦労して購入したものを使っている。
たまに割れたりして減ってしまうけど、まだまだある。
子ども用の食器が増えただけだ。
あと実家と友好的になってから実家の収納にしまいこんでいた食器セットを「本当は実家からお嫁に行くときに渡したかったよ」と母に言われた。

それにあの時先輩と2人で必死に運んだあの洗濯機は現役だ。
一度ホースが詰まったがホームセンターでパーツを購入し交換するだけで息を吹き返した。とても安価で購入したのに元気に稼働してくれている。

貧乏暮らしをしたおかげで結婚の時も必要以上に家電や家具を買い替えなかった。結婚式もしなかった。だけど写真だけは撮った。

兄エッティが「結婚式、ちょっといい外車が買えるくらいかかった」と話していたので怖くて式場にすら近づけなかった。洋装、和装、お色直しと大規模の式場に親族のヘアセットまで付いているコースで立派な式を挙げた。

子どもの頃からいつも優しい兄エッティが自分と同じ戸籍から居なくなるのかと思うと無性にさみしく、自然に涙があふれて食事も喉を通らなかった。だけどメインディッシュのA5の牛肉は泣きながら食べた。美味しかった。

式の後、比較的遠方から来ていた私には部屋まで取ってくれていた。翌朝は和食を頂いた。その時もTKGを食べたのを覚えている。

卵かけごはんは私にとって幸せの象徴だ。


#うちの卵かけごはん

無印良品のポチ菓子で書く気力を養っています。 お気に入りはブールドネージュです。