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当事者であると明かすことの意味

小松原織香『当事者は噓をつく』(筑摩書房、2022年)

 書名は、「当事者である」と名乗ることによって、「当事者でないかもしれない」という秘密を背負うことによる苦しさに由来している。

 著者は、修復的司法の専門家であり、本書で自身が性暴力被害者であることを公表した。しかし、研究者であり、当事者でもある人は、自分が当事者であることをことさら公にしようとはしない。著者もそのデメリットについて承知している。

 もしカムアウトすれば、かれら(引用者注:支援者)は私の論文や本を、「研究者」ではなく「当事者」が書いたものであるとみなすだろう。私の文章は客観的ではなく、当事者としての自分の経験を正当化するものだと思われるかもしれない。つまり、学問的追求ではなく、私利私欲を満たすために研究していたと取られるのである。(188頁)

 では、なぜ公表に踏み切ったのか。ひとつの理由として、年を重ねて、もっと若い世代を気にかけるようになったことがあるという。自身の物語は、もしかすると、痛みやマイノリティ性を抱えた若い人たちが今後の人生を考えるための材料になるかもしれない。もうひとつの理由は、性暴力のような強烈な経験ではなくても、人は生きていくなかでなんらかの痛みやマイノリティ性を帯びるということに気づいたことだという。著者が生き延びるプロセスで見た風景は、性暴力被害者ではない人が同情や憐み以外の方法で、当事者について理解を深める手段になりえる。

 著者が掲げる理由は、性暴力被害の経験が決して他人事ではなく、私たち自身を見つめる素材として役に立つことを明らかにしており、本書の意義をも明確にしている。

 本書は、著者のライフストーリーであるが、性暴力被害者としての自己に捉われず、様々な立場を変遷しながら語っている点に特徴がある。すなわち、性暴力被害者から性暴力サバイバーへと変わり、当事者である研究者として支援者に憤り、当事者ではない研究者として当事者(水俣病患者)との関わりや研究に悩む。一見、著者固有の特殊な事例に思えるが、本来、当事者は様々な立場を移り変わりながら、あるいは併有しながら生きている。著者のライフストーリーは「性暴力被害者→性暴力サバイバー」の単純な経路に収まりがちな定型的な語りを超越し、一人の当事者の中にも多様な在り方が広がっていることを教えてくれる。

 読了して感じたのは、本書を出版した後、著者は自らの存在をどのように受け止められたいかという疑問である。著者が懸念していたように、当事者であることを公表したことによる不利益は今後つきまとってくるように思われる。性犯罪のフィールドにおける発言は、研究者としてではなく、当事者としての発言として常に受け取られてしまうかもしれない。それとも、当事者であることも単なる経歴として語られるようになるのか、支援者や研究者の世界も変えることになるのか、著者の今後を注視したい。

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