見出し画像

「おお、友よ、このような音楽ではない!」ベートーヴェンの作品と間違われた交響曲を聴いた。

“O Freunde, nicht diese Töne!”
「おお、友よ、このような音楽ではない!」

これは、ベートーヴェンの交響曲第9番の第4楽章で、バリトン・ソロによって一番最初に歌われる歌詞である。

もし、ベートーヴェンとは別人が作った作品が、何かの間違いで
「これはベートーヴェンの作品である」
として世に広まったら、ベートーヴェンはきっとこう言ったことだろう。

かつて、ベートーヴェンの新発見の交響曲とされながら、実は別人の作品だった、という作品がある。

すでにベートーヴェンの死後の話なので「おお、友よ、このような音楽ではない!」と言うことはなかったわけだが、いったい、そんな間違いはどのように起こったのだろうか。

そして、その間違われた作品はどのようなものなのだろうか?
これは聴かずにはいられない。

+++++++++++++++++++++++++++++

『フリードリヒ・ヴィット/「イェーナ交響曲」 ハ長調』


●ベートーヴェンの交響曲「第0番」?
●「全くの別人作曲家」フリードリヒ・ヴィット
●ふたりの共通点① お手本はハイドンの「交響曲第97番 ハ長調」
●ふたりの共通点② 同じ年、この世に生を受けた
●「イェーナ交響曲」を聴いてみた。
●間違いとその結果について

+++++++++++++++++++++++++++++

●ベートーヴェンの新しい交響曲が発見された!

ベートーヴェンの交響曲は第1番から第9番までの9曲であることは周知の事実である。

でも、
「あの大作曲家ベートーヴェンの、これまで知られていない交響曲が発見された!」
と聞けば間違いなく大騒ぎになるだろう。

その大騒ぎが20世紀初頭(1909年)になって実際に起こったのである。

もし、現代において、この出来事が起こっていれば、「作品はこのようにして発見された」というドキュメンタリー番組が放送されたり、作品に関する研究を著した書籍の刊行が行われたり、そして当然、音楽なので「どのような音楽なのか?」を聴ける状態にして「誰が初演するのか?」とか、「誰が最初の録音を行うのか?」など、商業的な権利を巡る話題にもなることだろう。

1909年、イェーナ大学の音楽アカデミーにあった書類の中から、ハ長調の交響曲の全パートが記載された楽譜が発見された。

それには、なんと「ベートーヴェン」の名前が記載されていたという。

ベートーヴェンの作品がこんなところに眠っていたとは。

しかし、そこに記された音楽は、交響曲第1番でもないし、第2番でもないし・・・第9番でもない。

ということは、これは「ベートーヴェンの新しい交響曲」なのではないか!

●ベートーヴェンの交響曲「第0番」?

ベートーヴェンは1794~96年にわたってウィーンで作曲を学ぶことになる。
師匠は後日「交響曲の父」とも呼ばれることになるハイドンであった。

当然、ベートーヴェンは交響曲の作曲にも挑戦していた。

しかし、スケッチ程度で作曲を諦めてしまい、完成させることができなかった。

交響曲第1番は、最初から再び交響曲の作曲を試みて完成させたもので1800年に初演されている。

第1番より先に着手された未完の交響曲は、スケッチしか残っていなのだが存在は知られていた。

ということは、今回イェーナ大学で発見された、ベートーヴェンの名が記載された交響曲の楽譜は、未完の交響曲「交響曲第0番」が実は完成されていて、それが何らかの原因でここに残されていたのではないのか!調性も同じハ長調である!

この作品は、発見された場所の名前を取り「イェーナ交響曲」と呼ばれ、ベートーヴェン作品として知られるようになった。

※ボンのベートーヴェン・ミュージアムのウェブサイトには”Symphony no. 0 (C major) Unv 2”と掲載されているので、広くは通用されてはいないが、敢えて「交響曲第0番」と記載させていただく。

●「全くの別人作曲家」フリードリヒ・ヴィット

ベートーヴェンの新しい交響曲発見からかなり時間が経過した1957年。ベートーヴェンの「イェーナ交響曲」は、実は「全くの別人作曲家」による作品であることが判明する。

この作品の別の楽譜が新たに発見されたのだが、それが元で、この作品がベートーヴェンではなく、フリードリヒ・ヴィットの作品であることはほぼ違いない、と判断されることになる。

昔の作曲家にはありがちな話ではあるのだが、これは20世紀に入ってからのことである。おまけにベートーヴェンという大作曲家のことだから、相当研究もされていたと思うのだが、長い間それを覆すような理由が出て来なかったのであろう。

しかし
フリードリヒ・ヴィット?

知らない。。。いったい誰?

ヴィットは、生まれ故郷であるドイツの「ニーダーシュテッテン」南部にある小さな街「ヴァラーシュタイン」の宮廷楽団でチェロ奏者として活躍していた。そしてその後、この街にある劇場の音楽監督になった。

小さな街ではあるが音楽監督という立場になるためには、音楽に関する高い才能が必要である。チェロ奏者として演奏旅行をした際、音楽の都ウィーンでは大喝采を浴びた腕前だったという。

そして作曲家としても、作曲をボヘミア生まれの作曲家アントニオ・ロセッティの元で学び、オペラをはじめ交響曲や協奏曲など数々の作品を残した。

●ふたりの共通点① お手本はハイドンの「交響曲第97番 ハ長調」

ヴィットが作曲を学んでいた時、ハイドンがロンドンで作った複数の交響曲、いわゆる「ザロモン・セット」と呼ばれる作品の楽譜が、ヴィットが活躍していた「ヴァラーシュタイン」にも伝えられたという。

ヴィットもこの楽譜を元にして交響曲の作曲を試みたようだが、「ザロモン・セット」に含まれる交響曲第97番 ハ長調を手本にして完成させたのが「イェーナ交響曲」であった。

ハイドンは「ザロモン・セット」をロンドンで作曲した後、ウィーンに一時帰る道中のボンに立ち寄る。その時、ベートーヴェンにとっては「運命の出会い」を経て、弟子としてウィーンに来るように勧められるのである。

先にも書いた交響曲第0番 ハ長調の作曲の際、ベートーヴェンはヴィットと同じく、このハイドンの交響曲第97番を手本にしたという。

しかし、ベートーヴェンはスケッチ程度で作曲を諦めてしまい、未完のまま完成させることができなかった。

ふたりは、同じ頃、同じ交響曲を手本に、自らの交響曲の作曲にチャレンジしていたのである。

●ふたりの共通点② 同じ年、この世に生を受ける

ヴィットは11月8日生まれ、ベートーヴェンは12月16日生まれ(と言われている)。

2020年は「ベートーヴェン生誕250周年」を大いに祝った年である。ということは、当然ヴィットも生誕250周年だった。

「生誕250周年おめでとう!それを記念してヴィット全作品を納めたCD集を作りました!」なんていう話は残念ながら聞いたことが無い。

数々の作品を残したものの、そのくらいヴィットは無名の作曲家である。

彼の名前が現在において表に出てきている、それもほんの隙間から顔をちょっと覗かせる程度のものであるが、知られているのはこの出来事をきっかけにしたものであろう。

もちろん、わたしもそのひとりである。

●「イェーナ交響曲」を聴いてみた

さて、それでは「イェーナ交響曲」とはどんな感じの作品なのか?聴いてみた。

第1楽章は明るく始まるが、転調してマイナーになる序奏。そして、ティンパニとトランペットが活躍する、活発でワクワクするような曲調。

第2楽章は、穏やかなアダージョが美しいが、突如感傷的に変化。その雰囲気の中、突如手を差し伸べるような明るさが差し込むのが印象的。

第3楽章はメヌエット。優雅に流れるように踊るような曲。

第4楽章は早いテンポでノリノリの雰囲気で突き進んでいく。モーツァルトのオペラの序曲のようだ。

確かにベートーヴェンの初期作品のラインナップにあってもおかしくないような雰囲気を醸し出すが、やっぱりモデルとしたハイドンの作品にすごく近い。何も情報を与えられなければ作曲者は「ハイドン」と答えてしまうだろう。

ベートーヴェンはこの時期すでに、師匠のハイドンも首をひねってしまうような、当時の音楽のレベルを逸脱するような先進的な作品を生み出している。

例えば
「ピアノ三重奏曲 第3番 ハ短調 op.1-3」に対して、ハイドンは「この作品は出版しないほうがいい」と言ったらしい。

そして「ピアノ・ソナタ第1番~第3番」も、ハイドンの作品とは遠く離れたような、斬新な作品である。

その点から考えると、もし、ベートーヴェンの交響曲第0番が完成していたならば、もっと「尖った作品」になっていたのではないだろうか?

そう思わざるを得ないのである。

●間違いとその結果について


この間違いが起こった理由をまとめると
・新発見された交響曲はハ長調で、その楽譜に「ベートーヴェン」と記載されていたこと。
・ベートーヴェンは、ハイドンの交響曲第97番 ハ長調を手本として,
ハ長調の交響曲作曲を試みたこと。
・ベートーヴェンが試みた交響曲作曲は未完成に終わったこと。

その程度の理由が結びついて起こったのである。

楽譜にベートーヴェンと書いてあったから
「これはベートーヴェンの作品だ」
と判定されたことも簡単すぎる。

例えば、いたずら書きの可能性もあり得るし、筆跡鑑定を行ったのか、など20世紀であればもっと科学的な研究が行われた可能性は考えられるのだが。

そして、作品自体も、ベートーヴェンの作品であったなら、もっと先進的な、驚くような仕掛けがあってもおかしくないと考えられる。

間違いを決定づけた、その他の理由もあるかもしれない。しかし残念ながら、わたしの範囲では情報が探せなかった。

なんとも少ない証拠だけで一人歩きしてしまった作品「イェーナ交響曲」。

でも、そのおかげでヴィットは現代においてもちょっとだけ、名前が知られるようになり、作品がCDになって世に出て、わたしもこうしたエピソードを備えた未知だった作品が聴けるようになったことは嬉しい。

同じ年に生まれ、面識もなかったふたりの作曲家が後世、このような関わりを持つとは思いもしなかったであろう。

+++++++++++++++++++++++++++++

◎聴いたCDは

指揮:パトリック・ガロワ演奏:シンフォニア・フィンランディア・ユヴァスキュラ
録音:2008年5月5~9日 フィンランド、ユヴァスキュラ、ラウカ教会

★補足①

この作品が発見された1909年以降、コンサートでこの作品が演奏されたのかもしれない。しかし、録音のほうはまだ技術は不十分であり、録音が行われたのは1950年代からのようである。

「フランツ・コンヴィチュニー指揮/シュターツカペレ・ドレスデン」
による録音が一番有名であるが、恐らくベートーヴェン作品として録音されていたようだ。 

しかし、この録音は「違う作曲家」の作品であることが判明した同じ年1957年に行われているので、レコード会社や演奏者はきっと複雑な心境であったに違いない。

★補足②

ベートーヴェンの交響曲には「第10番」と呼ばれるものもある。それも交響曲第0番同様、スケッチのみ存在していて未完成のものである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?