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時間感覚についての試論 2章と結論

前回の記事の続きです。日常における言葉の理解から離れて、少し専門的な内容となっています。

 第2章 ベルクソンと時間知覚

 本章では、『時間と自由』におけるベルクソンの時間概念を検討し、時間知覚の意味づけを試みる。第1章の時間感覚仮説の時間論では、かなりの部分をベルクソンの時間論に依拠していた。しかし、この2つの時間論は完全に一致することはない。『時間と自由』におけるベルクソンの時間論には、時間がどのような性格を持っているのかという観点はあっても、時間がどのように可能なのかという観点はないからだ。ベルクソンの時間論は、『物質と記憶』において後者の問題意識へと移る。しかし、時間感覚仮説の時間論はベルクソンと同じ道を辿ることはしない。すなわち、ベルクソンとこの仮説は『時間と自由』から異なる道へと分岐することとなる。『物質と記憶』においては、後者の問題の一つの回答として緊張の概念が提案された。しかし、この仮説においては、時間知覚の概念が緊張の概念の代わりとなる。時間知覚の概念は時間の認識を可能にするものとして、この章において重要な位置に置かれる。
 『時間と自由』における時間論が他の時間論と区別される理由の一つは、質的多様性と数的多様性の対比を論じた点にある。すなわち、ベルクソンは表象の感覚的な強さと反省的な数の量を対比することによって、時間の本来の性質を見出したのである。ベルクソンは数によって表される時間を等質的な時間として批判し、異質なものを異質なまま知覚することによって得られる時間を本来の時間の性質であると考えた。数は感覚物を個別的なものに切り取り、感覚物同士の差異を捨象するのである。そのことによって、その感覚物は等質的なものとして把握され、幾何学的な体系のもとで計算可能となる。ベルクソンは次のように述べる。


言っておかなければならないのは、私たちは次元の異なる二つの現実を      認識するということである。一方は異質的で、それは感覚的質という現実であり、他方は等質的で、これが空間である。後者は人間の知性によってはっきりと理解されるものであって、これが私たちに截然とした区別をおこなったり、数えたり、抽象したり、そしておそらくはまた話すことをも可能にしているのである。
(『時間と自由』 ベルクソン著 中村文郎訳 岩波書店 2019年 p.119)


 ベルクソンによれば、時間の持続は感覚的な認識である。それに対し、空間とは感覚的な質を取り除き、等質的なかたちで事物を並置することによって把握されるものである。すなわち、持続はニュートンの絶対時間のような仕方で、認識されないのである。事物が並置されるような仕方で認識することは、知性によって把握されたものであって、直接的に把握されるものではないのである。
 ベルクソンは数によって表される時間を空間化された時間であると考えた。等質的な知覚物は、たとえ継起したものであったとしても、図や数のイメージによって認識されるという点で、空間化されたものなのである。ベルクソンは、空間化された時間を取り除くことによって、本来の時間である純粋持続を意識のうちに見出そうとするのである。質的多様性と数的多様性は、持続を純粋なものとして認識するための重要な区別である。この2つの多様性を考察することによって、ベルクソンの純粋持続が妥当なものであるか検討できるだろう。

 質的多様性と数的多様性

 ベルクソンは常識的な時間概念のうちに数の概念が混同されていることを指摘する。数は無限に分割することが可能である。例えば、1は10/10や100/100といったように無限分割可能である。もし時間が数の概念を含むのであれば、時間は無限分割可能である。しかしながら、私たちは時間の流れを認識しているのであるから、少なくとも認識において時間は無限分割不可能であり、一挙に把握されるのである。ベルクソンはここに質的多様性と数的多様性の区別を見出すのである。しかし、この2つがどちらも多様性であるという点で、さらに厳密な定義づけをなさねばならないのである。
 数を現実の事物に当てはめる際、それは事物のそれぞれの特性や個体差を取り除いて並置させる。例えば、羊を一頭ずつ数える際に、私たちは羊たちの大きさだったり毛並みだったりを無視して数えている。この点で、数的多様性は等質的であると言える。数えるという作業は、異質的なものを等質的なものへと変換させる作業なのである。すなわち、様々な性質を持った羊たちは、知性的な作業によって、羊Aや羊Bといった性質を持たないものへと変換させられるのである。
 羊たちを羊Aや羊Bと数えることは、未だ羊の概念を含んだものとして数えられている。しかしながら、数は現実の事物と完全に離れて、量だけを意味することが可能だ。すなわち、数は数式によって表されるようになると、たちまち無限分割可能なものとなるのである。ベルクソンは次のように述べる。


一言で言えば、考えられている単位と考えられた単位を区別しなければならない。それは、形成途中の数と、ひとたび形成された数とを区別しなければならないのと同様である。単位は考えられている間は還元できないものであり、数は構成されている間は非連続的なものである。しかし、数が完成状態で考察されるや否や、それは客観化される。そして、まさにこの故に、その場合、数は無限に分割可能なものとして現れるのである。
(『同書』 p.102)

 
 
 数によって事物を数えている場合、それは指している事物についての数である。それは、さらに客観化されると、数えられるものとなる。数えられるものとしての数は、他の数によって表されるようになる。例えば、1は10/10になりうるし、100/100にもなりうる。客観化された数はどんな小さな数によっても表されるようになる。
 現実の事物が数へと客観化されるには、2段階の作業が必要である。1つ目は、現実の事物を数えるものとしての数として想定することである。例えば、ある一匹の羊は単位として考えられる。その羊は羊一般の単位となり、その単位を使って他の羊を数えることができる。2つ目は、数えるものとしての数を客観化し、数えられるものとしての数とすることである。1匹2匹と数えていた羊の単位は、さらに客観化することによって、他の数によって表すことができる。例えば、1匹の羊は80kgや100万円といった数によって表されることができる。しかしながら、羊を1匹2匹と数えている際には表されることができない。というのも、ある羊を1つの個体として確定しなければ、その重さや値段を確定することもできないからだ。すなわち、「形成途中の数」は他の単位に還元できないのである。それに対し、「ひとたび形成された数」は他の単位に還元できる。というのも、それは対象となる事物を捨象するからである。例えば、重さとして表される羊は羊の概念を必要としない。それは2段階目の客観化によって、羊の概念や印象を取り除いているからである。羊Aは考えられた単位において、数の性質によってのみ表されうる。
 ベルクソンによれば、考えられている単位は非連続的なものとして、また、考えられた単位は連続的なものとして把握されているという。例えば、羊を数えている際、羊Aは羊Bやくっついている木の枝と区別されねばならない。考えられている単位において、それぞれの事物は非連続的なものとして成立しなければならない。しかしながら、考えられた単位において、事物は完全に数値としてみなされる。それゆえ、この段階では2匹の羊の重さを足すことが可能である。すなわち、それぞれの事物は連続的なものとみなされるのである。客観化の段階によって、単位は連続的であるかそうでないかが区別されるのである。
 数は2つの仕方で把握される。ベルクソンはこの区別を別の言い方で次のように述べる。


してみると、二種類の単位があるように思われる。その一つは、自分を自分自身に加えることによって数をかたちづくるように定められた単位であり、もう一つは、暫定的な単位で、それ自身では多数性でありながら、それを統覚する知性の単純な作用からその単一性を借りてくるような数にそなわっているものである。     (『同書』 p.98)


 すなわち、1つ目の単位は考えられている単位であり、もう1つの単位は考えらえた単位である。これらは決定的な単位と暫定的な単位と呼ばれる。決定的な単位において、事物は1段階だけ客観化される。例えば、目の前のコップは、この客観化によって、1つのコップという数の性質を与えられる。この段階では、コップの概念や印象は捨象されていない。それゆえ、コップは分割不可能なかたちで想定されているのである。それに対し、暫定的な単位においては、決定的な単位によって客観化された事物を、さらに客観化することによって、その事物の概念や印象を捨象させる。そのことによって、事物は数の性質のみによって把握される。その段階では、事物は分割可能なかたちで想定されるのである。
 暫定的な単位において、事物は他の様々な単位によって表される。例えば、コップはその重さや値段によって表される。すなわち、この段階において、コップは1つのコップとしてだけではなく、50や100といった多数的な数によっても表されるのである。それゆえ、コップは多数的な数によって表されながら、それ自体は単一なものとして考えられなければならない。ベルクソンによれば、その単一性は「知性の単純な作用」から得られるという。ベルクソンはこのことについて次のように述べる。


実を言うと、数をつくっている諸単位を無限に細分化するのを教えてくれるのは、算術である。これに対して、常識の方は、数を不可分なもので構築しようとする傾向が、かなりある。そして、このことはたやすく理解されることだ。というのは、構成的単位の暫定的な単純性は、まさに精神に由来するものであり、そして精神はそれが作用する素材よりも自分の作用そのものに注意を向けるものだからである。  (『同書』 p.104)


 構成的単位の暫定的な単純性とは、2や3といった複数の事物を示した数の単純性である。すなわち、2や3は多数性を示しているにもかかわらず、それ自体は1つの記号によって表されているのである。その単純性は記号の単純性によって可能である。さらに言えば、それは記号を作り出す能力によって可能なのである。「知性の単純な作用」とは記号化の作用である。すなわち、2は多数性という意味を持つとともに、記号の単純性によって。単一なものとして考えられるのである。
 数は考えられている単位において、等質的なものとして把握されている。というのも、現実の事物は数として抽象化される際に、それぞれの事物の異質性を取り除いているからである。それゆえ、決定的な単位の総合によって表された記号は、暫定的な単純性を有しながらも、質的な差異は持っていないのである。すなわち、数は決定的な単位と暫定的な単位のどちらの単位においても、等質的なのである。それは、例えば、1+1+1と3がどちらも等質的であることと同じである。このような等質的なものの把握は、「意識事実の多様性」と対比させられる(『同書』p.107)。これは数の客観化以前の知覚の質的な多様性である。メロディーはそのような質的多様性のわかりやすい例である。ベルクソンは次のように述べる。


なるほど鐘の音は相継起して私のところへ届く。だが、この場合、次の二つのうちのどちらかである。一方では、私はそれらの継起的な感覚を一つ一つ記憶にとどめ、それを他の諸感覚とともに編成し、知っている歌やリズムを思い出させるような一群の音をつくりあげる。この場合、私は音を数える(、、、)のではなく、音の数が私に与える言わば質的な印象を取りまとめているだけである。他方では、私は明らかにそれらの音を数えようとする。この場合、私はどうしても音を分離しなければならない。しかも、この分離は、音がそれらの質を奪われ、言わば空っぽにされたままで、互いに同じ通過の痕跡を残すような何らかの等質的な環境のなかでおこなわれなければならない。(『同書』 p.106)


 鐘の音の認識を分析することによって、2種類の仕方でそれを認識していることがわかる。一方は鐘の音を異質なまま総合し、メロディーとして認識することであり、もう一方は鐘の音を客観化し、等質的なものとして認識することである。すなわち、鐘の音は質的多様性か数的多様性として認識されるということだ。例えば、音楽を聴いている際、私たちは知覚しつつある音と記憶における音を総合し、心地よいリズムかそうでないかを判断している。それゆえ、ある1つの音だけ音程がずれていると、メロディー全体に影響するのである。
 このことは音楽を質的多様性として認識しているということだ。反対に、数的多数性によって認識するということは、音の感覚を客観化し、音の1つ1つを切り取ることによって、音楽を楽譜のように認識するということである。すなわち、質的多様性は音同士を連続的な関係として認識し、反対に、数的多数性はそれを非連続的な関係として認識する。それゆえ、前者は知覚と記憶が結びついて、時間的な関係を示しているのに対し、後者はそれらが分離され、空間的な関係を示しているのである。
 ベルクソンによれば、純粋な持続とは「現在の状態と先行の状態」、すなわち、知覚と記憶の有機的な一体化である(『同書』p.122)。それはある音とその後続の音の相互関係の成立であり、相互浸透とも呼ばれる。音同士のつながりは知覚されている音と記憶における音との間の時間的な関係において成立する。すなわち、メロディーの有機的な一体化によって現在と過去の結びつきが生じるのである。しかし、数は時間的な関係を取り払い、同時的な関係において成立している。次の節では、ベルクソンのこのような音楽の比喩が妥当であるかを検討する。

 音楽の比喩の批判的検討

 ベルクソンは質的多様性について説明する際に、音楽の比喩を用いる。それによって、音楽における豊かな印象を説明するのである。この節において検討することは、この音楽の比喩が質的多様性を説明していることになっているのかどうかということである。というのも、この比喩には数としての認識対象が前提とされていると思われるからである。
 メロディーを分析すると、それは知覚されたものとして客観化される。すなわち、メロディーから分解された音は、直接与えられたものではなく、客観化されたものとして把握されている。メロディーからその要素としての音への客観化の過程では、メロディーを空間化し、音同士を並置することが必要である。というのも、1つ1つの音を取り出すために、それらは、異質的であろうがなかろうが、分断されなければならないからだ。質的多様性の多性を分析することによって、その要素は異質なものとして比較されるのである。異質なものを把握するためには、それと比較される別の異質なものを把握する必要がある。そうでなければ、異質なものは単なる質でしかないからだ。ベルクソンの音楽の比喩では、たとえ質的な統合を想定されていたとしても、音を等質的なものとして並置する段階が必要なのである。というのも、もし質的多様性が相互浸透された、分析不可能なものであるならば、質的多様性のみから異質なものという要素を取り出すことはできず、また、質的多様性はその全体としてしか把握されないからだ。
 メロディーの分析は数的多様性を用いることによって説明される。というのも、メロディーを分析する際、1つ1つの音はそれぞれを比較する場を与えられるからだ。このことをよりわかりやすく説明するために、色を用いて考えてみよう。紫色を分析してみると、その色の中には赤色と青色が混ざり合っていたことがわかるだろう。赤色と青色を考えるためには、混ざり合わないように、それらを頭の中のキャンバスに描かなければならない。紫色のそれぞれの要素は、それらを比較する場が与えられることによってはじめて、分析可能になるのである。分析された紫は意識に直接与えられた印象によって把握されるのではなく、数的多様性として考えられた後に、再び相互浸透されたものとして把握されるのである。赤色と青色という異質なものは、いったん質的多様性から離れ、異質なものでありながらも、紫の要素として分析されるのである。メロディーの質的多様性についても、これと同様のことがいえる。メロディーはそれぞれの要素に分析されるならば、その要素は等質的なものとして並置されるのである。たとえメロディーがどんなに豊かな質的多様性をもっていたとしても、それを分析するならば、その印象は具体的なものから客観化されたものへと変化するのである。すなわち、具体的であるメロディーの印象は、音一般へと客観化されるのである。数的多様性における羊の比喩において、羊の個体差は捨象されるのであり、同様に、音楽の比喩においても、それぞれの音の特性はひとまず捨象されるのである。それでなければ、ある音はひとまとまりのもとして把握されず、他の音と区別されないのである。メロディーの分析が数的多様性によって説明することができるというのは、次のことである。すなわち、メロディーは決定的な単位によって1つ1つの音へと分解され、反対に、1つ1つの音は暫定的な単位によってメロディーへと統合される。1つ1つの音は数の抽象化によってメロディーから分解される。その際、メロディーは暫定的な単純性をもって想定されているのである。すなわち、メロディーは分割可能なものとして想定されているのである。ベルクソンの音楽の比喩では、分析されたメロディーが、あたかも初めから終わりまで具体的な印象であったかのように書かれる。しかし、その分析のうちにはメロディーが数的多様性として想定されている。いつのまにか分析によって得られた音一般はメロディーとして再編成され、再び異質的なものの集まりとしてみなされるのである。
 質的多様性を知覚対象によって説明するということは、異質的なものをいったん区別させて、それから総合させるという過程を辿ることになる。しかし、この過程には数的多様性を把握するのと同じ過程が含まれている。それゆえ、質的多様性を分析されていない純粋なものとして考えるならば、知覚対象から説明してはいけないのである。純粋な質的多様性は、それを認識する心的な作用の分析によって説明されなければならない。すなわち、純粋な質的多様性はどのようにして可能なのかという問いに答えなければならない。
 筆者はその問いに仮説的なものとして時間知覚と答える。時間知覚とは質的多様性を分析することなく、直接的に認識するということである。その認識において、記憶と知覚における時間の連続性が認識可能になる。
純粋な質的多様性における異質性は、それぞれの感覚物が異質であるという事実ではなく、異質性それ自体によって認識される。というのも、純粋な質的多様性は、それぞれの感覚物が区別されていないにもかかわらず、異質的なものとして認識されているからだ。それは異質性の印象を私たちに与えるのである。言い換えれば、連続性の印象を与えるのである。しかも、その異質性の印象は諸々の感覚物の印象とは異なった、まったく新しい印象である。
 時間知覚は異質的なものの統覚によって生じるというよりかは、感覚物同士の接着部分の認識によって生じるである。なぜなら、もし統覚によって時間知覚が成り立つとすれば、次のことが起こりうるのである。すなわち、50年前の出来事を思い出したとしたら、50年分の時間感覚が表象されうるのである。より厳密にいえば、知覚が記憶との結合において、記憶がより弱い印象であればあるほど、時間知覚は時間のより強い印象を引き起こしうるのである。しかし、このようなことはあり得ない。認識対象の内容は、整合性があるように組み合わせられる。例えば、今日電車に乗ったのは、12時に喫茶店を出た後だから、12時10分ごろだと考える。すなわち、私たちは認識対象を、矛盾のない因果関係によって、連続しているように後から把握するのである。時間知覚は時間の連続性を直接把握する。それゆえ、時間感覚の印象の強さは記憶の印象の強さによって左右されることはない。時間感覚の印象は時間知覚の作用によってのみ、その強さが決まる。想起によって記憶の印象を強めたとしても、時間感覚の印象に影響を与えない。時間知覚は連続性それ自体の認識であり、音や色といった他の知覚と区別されたものである。さらに言えば、それは感覚物に付着した接着剤であり、それ自体は感覚物を超えて未来や過去にくい込むのである。
時間感覚の印象は連続性それ自体の強度によって、印象の強さが変わる。言い換えれば、純粋な質的多様性の豊かさによって変わる。時間感覚は質的多様性のより繊細で具体的なつながりを可能にする。時間知覚は他の知覚と関わりなく認識可能である。しかし、時間知覚が他の知覚と関わるならば、その連続性の認識はより顕然化される。というのも、それは味覚が嗅覚や視覚によって影響を与えられるのと同じである。例えば、カレーのおいしさはスパイスの香りや暖かそうな湯気によって引き立てられる。時間知覚の印象は他の知覚によって強さが変わるのである。
 印象は私たちが何に興味を持っているかによっても、印象の強さが変わる。心地よい音楽を聴いているとしよう。その場合、私たちはその音楽に没入し、時間を忘れるのである。すなわち、私たちの興味は聴覚に気を取られ、時間知覚の作用を弱めるのである。それは音楽だけではなく、目の前の人間の動きに気を取られている場合にも当てはまる。他の知覚を志向するにつれて、時間感覚の印象は弱くなるのである。
 時間知覚によってメロディーの印象が可能である。それとともに、それはメロディーの質的多様性の豊かさによってその強さが左右される。しかしながら、左右されるのは時間知覚が他の知覚と同等の作用をもって意識されている時である。時間知覚に対する意識がなくなるならば、私たちは時間感覚の印象を認識しないのである。
 メロディーの質的多様性は時間知覚の作用によってそのまま認識されるという説明によって、時間知覚を用いる音楽の比喩は、メロディーを分析することなく、メロディーの純粋な質的多様性を示すことができる。ベルクソンの音楽の比喩では、メロディーを分析することによって、数的多数性を用いる段階が生じる。このことによって、分析された質的多様性は意識に直接与えられたものから変形されるのである。それゆえ、メロディーの印象が音の有機的な一体化と称されることは不当である。それは客観化された質的多様性である。純粋な質的多様性はその分析によって説明されるのではなく、それが可能となる原理によって説明されなければならない。
 時間知覚は純粋な質的多様性を可能にするがゆえに、それを一挙に認識しなければならない。すなわち、時間感覚の印象が認識されるのは、時間感覚が現れる瞬間においてである。この瞬間は存在のレベルにおける瞬間であり、認識のレベルにおける瞬間ではない。時間知覚は、運動の因果がどうであれ、その認識の始まりは瞬間である。時間知覚の始まりは純粋な質的多様性の成立する瞬間である。時間知覚とそれが現れる瞬間において、持続と瞬間の概念が両立するのである。ベルクソンは次のように述べる。


すなわち、一方には、持続を欠いた現実の空間があるが、そこでは意識状態とともに諸現象が現れたり消えたりする。他方には、現実の持続があり、その異質的な諸瞬間は相互に浸透し合ってはいるが、その一つ一つの瞬間はそれと同時的な外的世界の状態に接近できるわけで、その接近そのものの効果で他の諸瞬間から分離されることもある。
(『同書』 p.133)


 ベルクソンにおいて、外的世界、つまり、存在のレベルの瞬間は想定されている。しかしながら、その持続の概念は存在レベルの瞬間の相互浸透によって説明されている。そこには少なくとも2つの瞬間を前提としているのである。2つの瞬間を前提とするということは、時間に空間的なひろがりを認めていることにはならないだろうか。すなわち、持続の概念はたったひとつの瞬間においてのみ可能でなければならないのではないだろうか。生成消滅する宇宙において、どんな因果関係があろうとも、過去のものが現に存在しているとはいえないはずだ。時間知覚は現在の瞬間においてのみ現れるのである。時間の連続性は、逆説的ながら、瞬間において可能である。
 第2章をまとめると、次のようになる。ベルクソンは数的多様性と質的多様性を区別することによって、認識対象が2つの仕方で把握されることを明らかにした。すなわち、数的多様性を把握するということは、認識対象について感覚的質の差異がない等質なものとして把握するということである。それに対し、質的多様性を把握するということは、認識対象について感覚的質の差異を保持したまま把握するということである。ペンを1本ずつ数える場合、その1本1本は客観化され、感覚的質が取り除かれる。というのも、そうでなければ、50本のペンを一度に全て把握することができないからだ。事物を数えるということは、その当のものを用いて数えることでもある。例えば、ペンを数えるということは、1本のペンをペンの単位として想定し、他のペンを数えるということである。ベルクソンによれば、それは「形成途中の数」と呼ばれる。ここからさらに客観化することによって、「ひとたび形成された数」という段階に入る。その段階では、1本のペンは他の単位によって表されうる。それぞれのペンは1つのものとして確定されるがゆえに、他の数によっても表されうる。1本のペンは100円といった多数的な数によって表されうる。それは100という1つの記号を考えることによって可能である。数的多様性はこのように等質化された事物を記号として把握するということである。それに対し、質的多様性は客観化する以前の「意識事実の多様性」である。ベルクソンはそれについて音楽の比喩を用いて論じる。メロディーの印象は記憶における感覚質と知覚における感覚質を統合させることによって生じる。それらは客観化によって1つ1つが区別されないがゆえに、有機的に一体化されている。それゆえ、ある1つの音だけ音程がずれていると、メロディー全体に影響するのである。質的多様性は異質なものを分離させることなく、異質なまま把握するということである。しかし、ベルクソンの音楽の比喩で、質的多様性は説明できるのだろうか?すなわち、その比喩における異質性は客観化されたものではないだろうか?というのも、1つ1つの音を取り出すために、それらは、異質的であろうがなかろうが、分断されなければならないからだ。異質なものは、それが異質であるために、他の異質なものを必要とするのである。それゆえ、ベルクソンの比喩は、質的多様性を客観化し、その内の異質なものを分断しているのである。言い換えれば、このことは質的多様性の具体性を無視しているということだ。それゆえ、客観化されていない純粋な質的多様性を想定しなければならないのである。論者は純粋な質的多様性の認識を可能にするものを時間知覚と呼ぶ。時間知覚は時間感覚という1つの印象を生み出す。時間感覚とは連続性それ自体の印象である。音と連続性の印象によって、具体的で純粋な質的多様性は認識されるのである。そして、時間知覚は知覚であるがゆえに、その知覚が現れる場が必要なのである。すなわち、時間感覚仮説の時間論は、知覚し始めた瞬間を前提としなければならない。


 結論
 
 時間概念は多相的である。すなわち、時計によって把握される時間や、運動する場としての時間、印象として時間といった意味を、時間という語は全て担っているのである。それゆえ、時間概念のそれぞれの意味はしばしば混同されて用いられる。時間が連続していると考えられるのは、時間知覚が連続性を表象させているからである。その連続性は因果関係によって得られる連続性とは異なる。時間感覚の連続性は知覚された事実として把握されるのに対し、因果関係によって得らえた連続性は整合性があるように把握される。これらの連続性は認識されるものである。しかしながら、認識されない時間や運動を想定することができる。それは時間知覚が作用する場である。その場がどのような場であるか、つまり、連続しているかどうかということは、本論では論じていない。しかし、この場について疑問を提示した。すなわち、認識されない場において、時間と運動は相関しているのか、そして、時間は運動に対してどのように作用するのかということである。
 時間感覚は瞬間において表象されるものである。というのも、知覚の始まりは瞬間であるからだ。知覚が時間の幅を持っているかということはわからない。少なくとも、知覚が瞬間であるか、瞬間によって構成されていることだけは確かである。
 時間知覚は認識対象の総合ではなく、時間の連続性の知覚である。というのも、認識対象の総合は、整合性がある因果関係を組み立てることであるからだ。すなわち、それは時間の流れを後から作り上げるということだ。それゆえ、時間の連続性の印象は認識対象の総合によって把握されるものではない。今はまだ、その印象は時間知覚よって把握されるとしか言えない。
本論では、時間感覚仮説を立てることによって、時間の流れとは何かということについて論じた。時間の流れとは、時間の連続性の印象である。この1つの定義を意味あるものとするのは、時間感覚仮説を立証することに他ならない。これが今後の課題である。

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