見出し画像

3月9日【父のこと】

5年前の3月9日のことを思い出す。
長女の高校受験2日目の朝、私は長女の弁当を作っていた。7時頃だったと思う。電話が鳴った。

電話は母からだった。
「さつき、警察がきた。お父さんが病院に運ばれたって。お母さん今仕事中なんだけど、なるべく誰かと来てくださいって。迎えに来てくれる?」

文章だけで見ると、淡々と落ち着いて見えるけれど、実際の言葉はこんなに冷静じゃなかった。
不安と動揺で声が震えている、けれどそれを必死に抑えて落ち着いて話そうとする母。

母は有料老人ホーム(高齢者施設)で朝食介助等の準備の真っ只中だった。このあと9時からはデイサービスのスタッフとして勤務予定だったが、会社の許可を取り早退させてもらえることになったと話す。

母からの話を聞いて、一瞬、時が止まった。
私の目の前にある風景。
作り終えた数品のおかず達。
受験2日目と言うことでドキドキしながら準備をしている長女。普段通りの他の子ども達。
電話の向こうで私の返答を待つ母。頭と目と心がぐるぐる回る。

「お母さん、ごめん。
今日〇〇(長女)がこれから受験だから、それを見送ったら出れる。それまで待てる?」

きっと母にとっては辛い返答だったと思うし、私もそれを分かった上での答えだった。
約1時間、この不安な気持ちで待たされるなんて自分なら考えられない。
警察の人から「1人ではなく誰かと来て」と言われてる時点で只事ではない。また母自身、今1人で病院に向かうことはとても怖いと言っていた。

今すぐ家から出たい気持ちを抑えつつ、あと1時間、あと50数分、私は私の役目を果たさなければと思った。何事もなかったかのように電話を切り、残りのおかずを弁当に詰め、長女と他愛のない話をする。他の子ども達の身支度を見守り、他の家事をしながら自分自身出かける準備を進める。

今ここで私が動揺したら目の前の風景さえも何かが崩れると思った。日常をいつも通りでいようと思った故の行動だった。母との電話の内容は誰にも話さず「頑張ってね」と長女を送り出し、他の子ども達を送り出した。

よし。もう出れる。車に乗り母に電話をした。
「遅くなってごめんね。今から向かうね」

母はすでに病院に向かっている最中だった。
私との電話を切った後、警察に事情を説明したところ「一緒に行きましょう」と言われ、警察の車で移動しているところだった。

私も直接病院に向かうことにした。
何をどう考えながら病院へ向かったかあまり覚えていない。
警察の方からは「お父さんが事故に遭って病院にいる」としか聞いていない。父の状態がわからない。ただ、最悪な状態も想像した。
途中で一度妹に電話をしたと思う。また何か分かったら連絡するとだけ伝えた覚えがある。

到着した先は県立の急性期病院で、父は救急外来にいるらしい。そこでちょっとホッとした。「生きてる…良かった」そう思った。

と思ったのも束の間。
母と合流してすぐ「先生から話があるらしい。一緒に聞いてくれる?」と医師の元に呼ばれる。

母はとても不安そうだった。顔面蒼白ってこう言うことなのだなと思った。その場で崩れ落ちてしまいそうになりながらも頑張って立っている、そんな風に見えた。
医師を待っている間、経緯を確認する。

母から聞いた話は以下の通りだった。
いつも通り出勤して仕事をしていたら、警察の方がきた。
父の名前を言われ「奥さまですか?」と聞かれそのとおりだと返答した。
「◯◯(父の名前)は今病院にいます。詳しいことはこれから説明しますが、1人で向かうと慌てて事故などに繋がると良くないので、誰か家族と来てください」と言われ娘である私に電話をした。けれど、私がすぐに出れないことを知り、そのまま警察の方に伝えると「一緒に行きましょう」と病院まで連れてきてくれた。との事だった。

母もまだ父に会えておらず、父の状況についてはわからないままだった。
しばらくして医師が入ってきた。

交通事故だった。
自営業の居酒屋の閉店後、いつものように店内で仮眠を取った後、いつものように歩いて自宅に向かているところで車に跳ねられた。
車の一番硬いフレーム部分に頭がぶつかり、宙に飛び、そのまま頭から落下した様子とのこと。呆然と聞く母、医師の説明を急いでメモする私。

その時のメモ。

普段のケアマネ業務からの癖で、いつ誰がなんと言ったのか。
時には、嫌悪感を抱いた言葉や、親身に対応してくれた看護師の名前まで記録していた。

医師からの説明後、父に会わせてもらえた。
ベットの上でいろんな管や包帯、ガーゼがまかれている父の姿があった。
呼びかけても返事はない。その時に母が父にかけた言葉。
「〇〇(妹の名前、父からすると次女)の赤ちゃん、もうすぐだよ。抱っこするんだよ。ダメだよ。」と生きてほしい、諦めないでと声をかけていたと思う。私はなんて声をかけたか覚えていない。そこで初めて母と一緒に泣いた。

その後、事故を起こした方が勤務先の代表者に連れられやってきた。
何も言えず下を向くその人と、代わりに事情を説明する勤務先の代表。
その人は仕事に向かう途中だった。いつもと違う道を通ったらしい。
比較的見晴らしの良い道路だったが、たまたま事故をおこした場所は緩いカーブになっていた。少しよそ見をしていて気が付いたら父がいた。ブレーキは踏んでいなかった。

それ以上、話を聞けない母の代わりに私が話を聞いた。
代表は、従業員であるその人をかばっていた。何も言えないその人の代わりに代表が何度も謝った。優しく頼りになる代表だと感じた。
けれど、見るも無残な父の姿を思うと、そのやり取りさえも苦しく感じた。
でも私は言葉が出てこなかった。最後に私が相手にかけた一言は『ゆっくり休んでください』だった。父親が生きるか死ぬかのときに相手に感情をぶつけることもできない。そんな私自身が少し嫌だった。


毎年、3月9日になるとこのことを思いだす。
それから父は5年たった今も意識は回復していない。


けれど、幸いにも状態は維持できており、自宅で母が24時間の介護をしている。自ら動くことや会話もできない、意思表示もできないけれど、父がそこにいるだけで家族みんなが笑顔で過ごせている。

高校卒業後上京し全然帰って来なかった弟は、これを機に沖縄に戻り介護の仕事に就いた。当時婚約中だった彼女と無事に結婚し、第1子誕生。奥さんのおなかにはもう一つの命がすくすく成長中。弟は今、楽しくデイサービスの相談員をしている。

あの時第1子妊娠中だった妹は、今3人の母になった。妹の子ども達はじいじ大好きでいつもベット回りで遊んでいる。まだ小さいのに、じいじに触れる手や声がとても優しい。父に一番気にかけられていた妹。妹が出産したら父が赤ちゃんの面倒を見に行くと言っていたが、今は毎週末実家に妹家族が泊まりにくるので、じいじが行かなくてもベットで横になりながら孫の成長を喜んでいるだろう。

介護の仕事をしながらも、実際に寝たきりとなった夫の24時間介護をすることに不安を感じていた母も今はもうすっかり慣れっこ。頻回にある体位変換や痰の吸引は深夜も関係なく行われるけれど、その隙間隙間で寝ていて逞しく感じるほど。ただ、万が一の延命処置はしないと決めている。だからこそ、今一瞬一瞬を大切に、なるべく体調を崩さないようにと、愛情たっぷりきめ細やかなケアを実践している(誰も真似できないのではないかな?と思うほど)

そしてあの時、第5子生後3か月だった私は、家族を代表して弁護士や警察、病院、介護関係、障がい関係、保険関係の手続きを代行しながら、家事や子ども達のこと、立ち上げたばかりだった自身の会社の経営(ケアマネ、病院付添サービス)をこなしながら今「介護離職を防止する、仕事と介護の両立サポート」のサービスを事業展開している。

****

事故が起きる二日前は妹の誕生日だった。
妹夫婦と父と母は外食で妹の誕生日を祝った。
その帰り道、父と母がした会話を後で母に聞いた。
「もう子育ても終わったね」「これから孫も増えるし楽しみが増えるね」
「これからは夫婦仲良く二人で楽しく過ごしていこう」そんな会話だった。

母はそれを実現していくと言っている。

いつも少年のような笑顔で居酒屋のマスターとして常連さんから人気のあった父(特に男性にモテていたかな?(笑)
熱くて誠実で、けれどユーモアがある父。運動神経抜群で音楽もできた父。
私が小学校2年の時に母と再婚して、私を実の娘のように可愛がってくれた父(私に後に好物となるステーキの美味しさを教えてくれたのも父でした)
母のことが大好きな父。仲良しな二人。
そんな二人を私たちが支えていきたいと思う。

***

そんな決意の3月9日でした。
長文にお付き合いいただきありがとうございました。


(診断名)平成29年3月31日時点
#外傷性脳内出血 #外傷性くも膜下出血 #左肺挫傷
#左多発性肋骨骨折 #骨盤骨折 #左血胸

(特記事項)気管内挿管をおこない、人工呼吸器を装着。保存的治療をおこなった。自力体動不可。経管栄養おこない入院加療となった。
本診断書作成の時点で今後意識が回復する見込みは非常に厳しいと思われる。

(現在)
身体障がい者手帳1級
介護保険:要介護5(小規模看護多機能、福祉用具貸与、訪問診療、訪問薬局、訪問歯科、訪問入浴等利用中)

私が綴る父の記録は約4センチの厚みとなった。

(私、さつきのこと)自己紹介動画
合同会社hareruya 代表
RichHeartプロジェクト沖縄 発起人
プライベートケア 共同運営
ソーシャルリース沖縄 理事


父と母のことから「産業ケアマネに思うこと」はこちら


私さつきとさんかくしおハッカのコラボnoteはこちら