ホテルウイングステート東京 第20話
青井 空(あおい そら) 25歳 その3
如月さんはグランドピアノの前で日高さんと立ち話をしていた。いつもなら日高さんは相手がいようと必ず女性一人だけを席から連れ出し、2人掛けのソファで女性の隣に座って話をするが、今は俺が一人で座っている。バーの中心にあるピアノと少し離れたここは、トワイライトにいるお客さん全員の視線が集中する場所だ。他のお客さんの視線をすごく感じるし、何を言っているのかまでは聞きとれないが、こっちを見てひそひそと話す声も聞こえる。
日高さんと話している如月さんは、俺が見たことがないぐらいにも素敵な笑顔をしていた。さっきまでの戸惑いの表情が嘘みたいで、まるで魔法にでもかけられたみたいに思える。
如月さんは俺よりもトワイライトに通って日高さんのピアノを聴いていたし、日高さんも顔は見えないとはいえ、一番近くでピアノを聴いている如月さんの事を日々感じていただろう。とはいえ、俺が入るような隙間がとても無さそうな気がして、なんだかすごく悔しい。
「お待たせ」
俺の隣に座った如月さんの顔は、今まで見たことがないぐらいに穏やかな表情になっていた。少しの間立ち話をするだけで、打ち解けるだけではなく、ここまで人をリラックスさせるなんて。
「彼、私が思っていたような人じゃなかったわ」
「如月さんが思っていたような人って?」
少し考え込んでから、如月さんは口を開いた。
「……そうね、すごく素敵なピアノの演奏はできるけど、会話をすれば、立ち入って欲しくない部分まで土足で勝手に上がりこんでしまうような人。かしら」
立ち入って欲しくない部分がどこなのか、俺にはすぐにわかった。多分俺でも触れてはいけない、如月さんが最後にキスをかわした相手だ。
「でも、全然そんなことはなかったわ。私が好きな曲だったり、今までの彼の演奏で一番思い出に残ってる曲だったり……」
「如月さんの好きな曲って何ですか?」
「What A Wonderful Worldよ。スタンダード過ぎてごめんなさい」
如月さんの好きな曲が、絶対に俺が知らない曲どころか、誰でも聴いたことがある定番曲で驚いた。テレビCMでも使われていたから、如月さんに勧められてジャズを聴き始める前から、メロディーは知ってる曲だった。
「ちなみに日高さんの思い出の曲はFly me to the moonね。初めて空さんと会った夜に話したでしょう?音が生き生きとしてたって」
「覚えてます」
「空さんと会った日に演奏した事も話したわ。あのとき、彼は私達に向けてのプレゼントで演奏したって教えてくれたの」
とても嬉しそうに話す如月さんは、大人っぽさが非常にあるのに、ほんの少しだけ無邪気さ垣間見えて、可愛らしいなとも思える。
日高さんと話して、何かが変わったことはすごく感謝しているが、若干、嫉妬している俺がいる。
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