ホテルウイングステート東京 第19話

青井 空(あおい そら) 25歳 その2


「お姉さん、よかったら僕と少しお話しませんか?」

 突然、後ろから声が聞こえた。トワイライトの常連なら誰もが知っている声だ。振り向くと、ピアニストの日高さんが立っていた。如月さんが「実は、まだ日高さんに声をかけられた事がまだ無いの」と、この前苦笑いをしながら話していたのを思い出す。

「ダメですか?」

 笑顔を決して崩さず、再び日高さんは如月さんに話しかけた。俺みたいな男でも、日高さんの砂糖菓子みたいな甘い声はどんな女性(ひと)でも心を射止める事ができるのはわかる。ああいう声に女の人はときめくんだろうな。

「でも……」
「あなたとお話して、あなただけの曲をずっと弾いてみたかったんです」

 複雑そうな表情(かお)をしている如月さんを、子犬みたいな甘いマスクがじっと見つめている。訴えかける視線は、逸らしたくても逸らせない感じだ。色んな女性と話をしているから、女性のこんな表情は見慣れているんだろう。

「……いいじゃないですか。俺も聴いてみたいです。如月さんの曲」

 思い切って、俺は二人の間に割って入った。如月さんは驚いたあと、戸惑った表情を見せる。正直、俺だって如月さんの曲がどんな曲なのかを聴いてみたい。でも、如月さんのことだから、このまま膠着状態が続いたとしても、最終的には日高さんの誘いを断っているだろう。

「じゃあ、お二人ならどうですか?」

 日高さんの視線が如月さんから俺に変わる。俺とそんなに年齢は変わらないと思うが、俺より子供っぽい感じ。なのにフォーマルな服装をしっかり着こなしていて、金髪なのに清楚感がすごくあるから、本当に不思議だ。

「……わかったわ」
「ありがとうございます!」

 わかったとは言ったものの、如月さんの顔にはまだ迷いが見えていた。そんなの関係なしに、日高さんは隣にいる俺の両手をぎゅっと握り、とても嬉しそうに感謝の気持ちを告げている。
 きっと、念願が叶ったんだろう。俺の手を握る彼の細い手は思っていたよりもすごく力強い。如月さんが美人だからずっと弾いてみたかったという気持ちが伝わる。

「俺もいいんですか?」
「いいですよ。君も、ご一緒にどうぞ」

 日高さんは微笑んで、振り返りピアノへと歩き始めた。ピンと伸びた背筋にタキシードの後ろ姿は、見栄えがよくかっこいいなと男の俺でも思ってしまう。
 突然、日高さんは俺に向かって軽く手招きをした。歩み寄ると、顔を近づけてひそひそ声で俺に話しかけくる。

「君のおかげで、やっと彼女の曲が演奏できるからね。本当にありがとう」

 上機嫌そうに俺に向かってウインクを軽く飛ばすと、なにかを思い出したような顔をした。表情がころころと変わる忙しいヤツ。

「あっ、でも僕は男性の曲は弾けませんので、ご理解ご了承をお願いします」

 申し訳なさそうに両手をあわせたあと、日高さんは少しだけ小走りでグランドピアノの前へと向かった。

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