ホテルウイングステート東京 第16話

如月 ゆかり(きさらぎ ゆかり) 40歳 その5



「けど、嬉しいなぁ。これ頼む人なかなかいないから」

 再びこっちを向くと、子供っぽく空さんは笑った。こちらもなんだか嬉しくなってしまうような、不思議な笑顔。

「あ、やっと笑ってくれた。笑顔、めちゃめちゃ素敵です」
「……ありがとうございます」

 誰かに笑顔が素敵と言われたのはすごく久しぶりな気がするわ。そもそも、最後に私が笑ったのっていつだったっけ。
 どんなにくだらないテレビを見ても、友人の面白い話を聞いても、笑うことなんて出来なかった。思えば、『笑う』ということがどんなことなのかを、きっと私は忘れていたのかもしれない。

「如月さん、笑顔がかわいいからもっと笑ったほうがいいですよ」

 空さんの瞳は曇一つない大空のように澄んでいた。目を見ればその人がどういう人かわかるっていうけど、彼は大空みたいに澄んだ心の持ち主みたいね。

「なんか俺ばっかり喋ってますね。如月さんはどうしてこれ飲んでるんですか?」
「……大好きだった人を、思い出せてくれる味なんです」

 答えをはぐらかせようと思ったけど、なんだか見透かされそうな気がしたからとりあえずここは正直に答えておこうかしら。でも、それ以上は誰にも言いたくないわ。あの人との思い出には、誰にも立ち入って欲しくないもの。

「空さんは普段はカウンターでお酒を飲んでるんですか?」
「いや、窓際だったりカウンターだったり。今日は窓際に座ってたけど、奥から拍手が聞こえたから、誰かいるのかなって思って」

「私はここにいつも座ってるわ。日高君の演奏している姿は見えないけど、音は一番近くで聴こえるのも悪くないわよ。この席で初めて聴いたがFly me to the moonをだったけど、こんな近くで聴くと音がすごく生き生きとしてとても素敵なの」

 即興曲が終わり静まり返っていた空間にFly me to the moonのイントロが聴こえ始めた。とても優しいけど、たまに跳ねるようなタッチ。ふわふわとして、本当にこのまま心だけあの満月に連れて行ってくれそう。
 私には声をかけづらいから、日高君からの気持ちばかりのプレゼントという感じかしら。女性が大好きなだけあって、粋なことをするわね。

「俺と如月さんの会話、あのピアニストに聴こえてたのかな?」
「……みたいね」

 ピアノの旋律に軽いアレンジが入った。嬉しそうな弾む音色は話をきいていましたよと答えてるようだわ。

「日高さん、粋なサプライズをしますね」
「そうね。リクエストしたつもりはないのに、すぐに応えてこんな素敵な演奏を聴かせてくれるなんて、嬉しい」

 ピアノのリズムがだんだん乗っていく。大人の空間を壊さない程度に、いつもより揺れたくなってしまうリズム。聴いていてすごく気持ちいいわ。
 音楽は空間を引き立てるもの。好きな曲を生演奏ですぐ弾いてくれるなんて、お酒がさらに美味しく感じちゃう。

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