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【試し読み】全米100万部突破の話題作!『薬屋の秘密』サラ・ペナー〈著〉

デビュー作ながら発売後たちまちNY Timesベストセラーリスト入り、全米だけでなくカナダやスペイン、スウェーデンなど各国でベストセラーとなった話題作が登場! 18世紀ロンドンに存在したという、男たちを毒殺しつづけた謎の薬屋――大学で歴史学を学んだ主人公は、その薬屋がなぜ殺人を続け、果たしてどんな最期を迎えたのかを調べることに。過去パートと現在パートが交互に描かれ、登場する3人の女性それぞれの生き様にも感銘を受けるドラマティック・ミステリーです。

『薬屋の秘密』
サラ・ペナー[著]
新井ひろみ[訳]

その毒は男を殺し、女を守る。
18世紀ロンドン、連続殺人犯と恐れられた“薬屋”がいた――

1

ネッラ 一七九一年二月三日

 夜が明けたら彼女がやってくる─この手紙を書いた人、わたしがまだその名を知らぬ人が。

 彼女がいくつなのか、どこに住んでいるのか、不明である。上流、中流、労働者─いずれの階級に属しているのかわからない。夜のとばりが下りればどんな邪悪な夢想にふけるのかも。彼女は被害者かもしれないし犯罪者かもしれない。新妻かもしれないし、復讐心に燃える未亡人かもしれない。あるいは子守女か売春婦か。

 彼女についてわたしは何ひとつ知らないが、これだけは確かだ。この人には死んでほしい相手がいる。

 蝋燭の最後の明かりが照らす薔薇色の便箋を、手に取った。灯心のイグサはじきに燃え尽きそうだ。インクで綴られた文字を指でなぞりながら想像をめぐらせる。どんな絶望の果てに、彼女はわたしのような人間を探し当てたのか。薬剤師の顔をした殺人者を。偽装の名人を。

 要望は簡潔かつ明瞭だった。『わたしの雇い主の夫を、朝食の折に。二月四日の明け方にうかがいます』。すぐ頭に浮かぶのは、どこかのお屋敷で奥さまに仕える中年家政婦の姿だが、どうだろう。二十年もこの仕事をやっていれば、要望に最適な処方は直感的に思いつく。この場合は、マチンを注入した鶏卵である。

 手間はかからず、材料も手元にある。しかしなぜか、引っかかるのだった。便箋からはかすかに木の匂いがし、涙で湿ったせいか、左下の隅がわずかに丸まっている。けれどこの胸のざわめきは、それらとは関係ない。これもまた直感的なものだ。避けるべき何かがあると、直感が告げている。

 しかし、ありふれた一通の手紙のいったいどこに危険が潜み得る? 大丈夫、この手紙は何の予兆でもない。わけもなく不安になるのは疲れのせい─もう、こんな時間なのだから─それと、体の節々の痛みのせいだ。

 わたしはテーブルに目を向けた。そこにあるのは子牛革の表紙の、大切な日誌。生と死の記録。この特殊な薬屋で薬を買い求めた、大勢の女たちのリスト。

 はじめのほうのページを埋める軽やかな筆跡からは、嘆きや怒りは伝わってこない。色褪せたこれらの文字は母が記したものだ。バック・アレー三番地にひっそりとある、この女性専門の薬屋は、わたしが引き継ぐ前は母が営んでいた。

 折に触れ、母の記録を読み返す─〝一七六七年三月二十三日 R・ランフォード夫人 セイヨウノコギリソウ十五ドラム三回分〟─すると母にまつわる記憶がよみがえる。ノコギリソウの茎を乳棒ですり潰す母。うなじで髪が弾んでいた。無数の小さな花から種を取り出す手。その皮膚は薄くてすべすべしていた。わたしと違って、母が作業するのは隠し扉の裏ではなかった。赤ワインの瓶にこっそり薬を入れることもなかった。母は何も隠す必要はなかった。母の調合する薬は良きことのためだけに使われた。産後の肥立ちが悪い母親や、月のものがきちんと来ない女たちを助けた。だから母のページは安全な薬草の名で埋め尽くされている。疑いを招く余地は皆無だ。

 わたしが書いたページには、イラクサ、ヒソップ、アマランサスといった一般的な薬草名ももちろんあるが、危険な原材料の名も並んでいる。ベラドンナやクリスマスローズやヒ素など。それらの文字の陰には、背信や苦悩……罪深い秘密が潜んでいるのだ。

 頑健な青年の心臓が結婚式前日に止まったり、父親になったばかりの健康な若者が突然の高熱で世を去ったり。そんな出来事にまつわる秘密が、日誌には赤裸々に記されている。彼らが命を落としたのは心臓病のためでも熱病のためでもない。ここにその名を残す女たちの手で、チョウセンアサガオやベラドンナが、ワインやパイに混ぜられていたからである。

 ただし、ことの発端となったわたし自身の秘密は、ここには記録されていない。ただ一人、日誌にその名前が記されていない犠牲者─フレデリック。彼の名は、わたしの傷ついた心、損なわれた子宮にのみ、くっきりと刻まれている。

 日誌をそっと閉じて、手紙に注意を戻した。この胸騒ぎは何なのか。丸まった便箋の隅にどうしても目がいってしまう。何かが紙の裏側を這ってでもいるかのように、気になってしかたがない。時間がたつほどに不安は膨らみ、指の震えが激しくなる。シャンシャンと遠くに聞こえるあの音は、表を通る馬車の鈴。警吏の腰にさがる鎖の音にそっくりだ。でも彼らがここへやってくるはずはない。二十年間、やってこなかったのだから。毒を薬に偽装するように、この場所もうまく隠してある。男たちにここは見つけられない。ロンドンでも最も雑然とした一画の、入り組んだ路地。その奥の奥、壁と見せかけた間仕切りの裏に、わたしの薬屋はある。

 わたしは周囲を見回した。煤で汚れ放題だが、きれいにする気も体力ももはやない。棚の空き瓶にわたしの顔が映り込んでいる。かつては母と同じ鮮やかな緑だった目からは生気がほぼ失せ、つやつやしていた頬はげっそりとこけている。まるで亡霊のようである。とても四十一歳には見えない。

 ゆっくりと左手首をさする。火床に置き忘れられた石さながらに熱を持って腫れている。関節の不具合は、何年もかけてじわじわと全身に広がってきた。痛みも強くなっている。目覚めているあいだ、痛みは片時もわたしから離れない。そのうえ、毒物を扱うたびに新たな症状が現れるのだ。ときには十本の指がぱんぱんに腫れてこわばり、今にも皮膚が破れて肉があらわになるのではないかとさえ思う。

 人を殺(あや)め、隠し事を積み重ねてきたためにこうなったのだ。長年の行いがわたしを内から腐らせようとしている。内なる何かが、この身を引き裂こうとしている。

 空気の流れが止まったのか、低い石天井へ向かって煙が立ちのぼっていく。蝋燭はほとんど消えかかっているが、アヘンチンキを数滴飲めば、じきに気だるいぬくもりがこの身を包んでくれることだろう。夜も更けた。あと数時間で彼女がやってくる。そしてわたしは彼女の名前と秘密を日誌に書き込むことになる。今、どれほどこの胸の内がざわついていようとも。

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続きは本書でお楽しみください。

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