「愛」とは、「愛する」とは何か
皆さま、お疲れ様です。
今日のテーマは表題のとおりです。
私が「愛」「愛する」について考えたことを書き連ねます。
愛とは何かについて考えたことがある方は多いと思います。
今の時代、愛について調べれば、様々な格言や定義が出てくることかと思います。
「愛」という語を国語辞典で調べたとしても、出てくる定義は様々です(私が学生の頃は新明解国語辞典の意味が話題になっていた記憶があります)。
その中で有名なものとしてはエーリッヒ・フロムの著書「愛するということ」がありますね。この記事を開いた方でまだ読んだことのない方は是非ご一読いただければと思います。数ある「愛」についての視点の1つとして、学べることもあるかと思います。
私にとっての「愛」「愛する」とは
私にとっては、
根底には「愛とは手段ではなく、目的でなければならない」という考えがあります。
つまり「何かのためのものではなく、そのために行動したいと思うものである」ということ。
そして「充足感が得られるものである」こと。
つまり「空虚感に苛まれるものではない」こと。
愛が生まれる関係性は様々だと思います。親子、兄弟、恋人、夫婦、友人、仲間、などだけではなく、動物との間や神との間など、ありとあらゆる関係性で生まれうるものかと思います。
一方で、「依存」や「執着」もさまざまな関係性で生まれうるものです。こういった関係には「充足感」ではなく「空虚感」が満ちています。したがって、私はこれらを「愛」とは呼びません。
人によっては依存や執着に愛を見出している方もいるかと思います。そういった考え方を否定する気はありません。肯定する気もありません。ただ、自分が求めているものではないというだけです。
私にとって、「愛」というのは感情です。
なので、あくまで私自身が主体となって判断するものです。
おそらくは万人が共有することのできる定義は存在しないかと思います。
私が愛するということは「相手を理解した上で、肯定すること」であり、理解と肯定のいずれかが欠如していても、相手を愛しているとは感じないでしょう。
もちろん、この理解というのは、私自身の主観的判断――思い込みの域を出るものではありません。他者を真に理解すること、つまり相手の自己理解と私の相手への理解が一致することを証明することは不可能だからです。
重要なのはあくまでも「自分が相手を理解している」と感じられるかどうかです。
なお、この背景にあることとして強調したいのは「自分が相手を理解していると感じているとき、自分は相手を理解しようとしている」という前提があるということです。
「理解なき肯定」を私は否定しようとは思いません。それは社会生活を円滑に送るうえで重要な技能の1つでしょうし、尊重の形の1つでもあるでしょう。少なくとも「理解なき否定」よりもましだと思っています(これが世の人間をどれだけ傷つけていることだろうか)。
ただし、これは私の「愛する」という定義からは外れるというだけのことです。
「理解ある否定」ついて語ることは少し難しいです。「相手を理解したうえで否定すること」。これは自己否定、あるいは同属嫌悪にもっともみられるものかもしれません。
ここまで話していたことは、自分自身についても当てはまります。
「自己愛」とは「自分自身の中に見いだされ、充足感を得られ、そのために生きることができるもの」でしょうし、「自分を愛する」ということは「自分自身を理解した上でそれを肯定すること」でしょう。
他者を愛することが難しい方。
自分を愛することが難しい方。
どちらもいるかと思います。
その場合には、自分が「理解」と「肯定」どちらができないのかという観点から考えてみるのもいいかもしれません。
一方で、自分が愛されていると感じない場合について考えると「理解されない」場合と「肯定されない」場合に分けられるでしょう。
自分が理解されるためには相手に自分を開示する必要があるかと思います。
自分が肯定されるためにはまず相手を理解した上で、自分が相手に肯定されるためには何が必要なのかを考え、場合によっては自分を変える必要があるでしょう。
ちなみに、私の場合は相手を理解するよりも肯定することにハードルがあり、肯定される以前に自己を開示することにハードルがあります。理解→肯定という順序を踏まえれば、私は基本的には「愛する」ことの方が「愛される」ことよりも容易な人間ということになるかもしれません。しかし、自分についてあまり理解していないため、自分を愛することに対しても障壁が大きいということになります。
読者の皆さんはいかがでしょうか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?