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罪の季節 ep.2

「なあ、炊飯器が五千円って安いの?」
 日が暮れて、駅まで向かっている途中で、翼が不意に言った。彼の視線の先を見ると、電気屋の店先に「大安売り!」と冠された炊飯器が並べてあった。パソコンとか、デジカメが店先に並んでいる光景は、よくお目にかかるが、炊飯器はあまりない。だから翼も、
興味を持ったのかもしれない。
「さあ? ものによるんじゃね?」
「おれは高いと思うけどな」継介は反対のことを言う。「だって、たかだか炊飯器に五千円も払うんだぜ。だったら、いい靴買った方が得だろ」
「おれたちからしたらな。でも、主婦からしたら、長年使う炊飯器に五千円は妥当なんじゃねえの」
「ってか」継介は腹を抱えて笑いを漏らした。「何でこんな話してんだよ。マジ、うけんな」
 おれと翼も周りの喧騒に負けないような笑い声を上げた。くだらねえ、学生らしくねえ、と。
 駅に着いた。後は電車に乗って、帰るだけだ。ありきたりな一日がもうすぐ終わる。
 駅の構内で、女の人に声をかけている男の横を通り過ぎた。離れてから、「ナンパしてたな」と、翼が言った。継介も見ていたらしく、頷く。
「いたな。かっこよかったけど、もういい歳だったよな」
「しかし、女も女だよな。めっちゃ短いスカートはいて、ありゃ誘ってるとしか思えない」
 言ってから振り向くと、女は承諾したらしく、二人で歩いていた。
「俊哉、目移りすんなよ」
「そうだぜ、斉藤さんに言いつけるぞ」
 おれは一蹴した。「ありえん。愛美以上にかわいい女なんて、この世にいねえよ」
「言うなあ、俊哉」
「かっけえ。それ、本人に言ってやれよ」
 おれは少し照れくさくなりながらも、「いつも言ってるよ」と、調子を合わせた。
 電車が二人と違うから、改札で別れた。
 階段を上って、ホームで電車を待った。自分の暮らす街までおれを運ぶ電車を、虚ろな眼差しで待っていた。


 休日を挟んで、本格的に高校生活がスタートした。小学校みたく、校舎内を先輩に案内してもらうことはなく、自然と授業も始まっていく。「もう子どもじゃないんだから」と、言われているようだ。
 部活も然り。早くから決めていた人は、初日から入部届けを出して、練習に参加し、それ以外も部活見学に出向いている。おれは後者の一人だ。
 翼とテニスコートへ行って、練習風景を眺めていた。男女比で言うと、女子の方が多い。また、顧問の先生の姿はない。後で知った話だが、テニス部の顧問は忙しい身の上で、週に一度、見に来るかどうか。おかげで部の雰囲気も自由で、和やかで、居心地がよさそ
うだ。
 見学をした次の日、忙しいらしいテニス部顧問に揃って入部届けを提出し、高校でもテニスをやることに決まった。
 継介と愛美は、おれたちより早くにバスケ部に入部した。たまに、風通しを良くするために開け放されている体育館を覗くと、二人とも絶えず走っている。尊敬の念を込めて、激励の眼差しを送った。
 教室で机に座って、ぼんやりしていた。今は休み時間で、翼と継介が購買部に行っているため、一人で待っている。おれも誘われたが、何故か行く気にならなかった。
 校庭を見るともなしに見ていた。先輩が制服を汚してサッカーをしていた。その向こうに新築のマンションが建っている。学校の近くなんて、うるさくて敵わないだろうなあ。生徒だったら、遅刻しなくていいけど、確か、そこに住んでいる人は聞いたことがない。
「よお」
 変なアクセントをつけて話しかけてくる男子に気付いた。誰か分からなかった。馴れ馴れしいやつだ、と眉をひそめた。
「桜井、どうしたの? 一人で」
 誰か分からないままだったが、同じクラスの生徒だからぞんざいに扱うのも気が引けた。
「いや、何かボーっとしたくなって」
「ああ、ははは」
 妙に納得した後、一人で笑った。本当に誰だっけ。見たことがある気がする、この笑い。
「それで、お前って部活、何だっけ?」
 自分でも何が「それで」なのか分からなかったが、それ以外に話すことが見当たらなかった。
「おれ、サッカー部。中学からやってたから。正直、そんなに上手くないから、高校では大人しく文化部に入ろうかと思ったけど、練習見てたら、やりたくなってさ。まあ、レギュラーは難しいけど、とりあえず頑張ってみようかな、って感じなわけで」
 後半は全く聞いていなかった。教室の入り口付近で、愛美が手招きしていたからだ。
「悪いな」
 と、おれは片手を上げて、その男子から離れた。
「何、どうした?」
 愛美は一寸ばかり、さっきの男子に目を向けていたが、すぐに笑顔でおれを正面から見た。
「明日、ウチに泊まりに来ない? 親がいないから」
 小声で囁いた。共犯者めいた笑みを頬に浮かべている。
 愛美の家に泊まりに行くのは初めてじゃない。おれの家に愛美が来たことはないが――というか、来させられない。
「いいよ。じゃあ、翼と継介に協力を要請しないと」
「いつも悪いね、二人に。今度、何かおごってあげなよ」
「そうする」
 そこに、購買部から戻ってきた二人に居合わせた。
「じゃあ、よろしく」
 愛美はそれを待っていたかのように、踵を返した。
「どうした俊哉、密会か」
「絵になりますねえ、お二人さん」
「バカ言うな」おれは、にやついていただろう。「そうだ、二人に頼みがある」
 と言っただけで、二人は心得顔に変わった。
「そういうことか」
「今度はおれの家でいいか。桜井君と吉橋君はおれの家にお泊まりにきてまーす、ってことで」
 当然、まだ高校生の男女が寝泊りするなんて、常識的に許される話ではない。おれの親なら泊まり先に連絡するようなことはないだろうけど、万が一ということがあるから、予防線として、翼か継介の家に泊まっている、と嘘をつく。今回は、継介になりそうだ。
「悪いな、ホント。今度、何かおごるよ」
「マジ? 俊哉がおごってくれるなんて珍しいな」
「期待しないで待ってるぜ」
 肩を叩き合いながら、教室に入っていった。
 たまたま、男子の輪の外側で笑っている、さっきのサッカー部に入ったという男子が目についた。そして、その光景を見て思い出した。そういえば、入学式の日に同じ光景を見かけた。


 坂を少し上って、乱れた息を整えてからインターホンを指で押す。やや間を置いてから、愛美の間延びした声が聞こえてくる。
「はあい。今、開けるね」
 数秒して表に出てきた愛美はエプロンをしていた。何か作っていたようだ。
「よっす、愛美」
「よっ」片手を上げて、無邪気な笑顔を作る。
 玄関に足を踏み入れるとき、一応、小声で「おじゃまします」と告げた。
 愛美に続いて、リビングに通じる廊下を渡る。勝手を知っているから、今さら驚くこともない。でも、毎度、まさに理想のマイホームだ、と感嘆する。
 甘い匂いがしていた。どうやら、お菓子を作っているらしい。見た目だけであらゆる女子に勝っているというのに、愛美はお菓子作りが得意なのである。これなら、結婚してからは、毎日おいしい料理を咀嚼できそうだ――気が早いか。
「いい匂い。何、作ってんの?」
「ブラウニー」愛美は得意気な表情を向ける。「たまには、おもてなししないとね」
 愛らしい彼女の健気さに感動しながら、リビングのソファに腰掛けた。テレビと向かい合っているが、何も見る気はない。代わりにと、窓越しに外の世界を見ると、この家と似たような一軒家が坂の下に続いている。この辺は、別世界だ。おれの家からそんなに離れていないのに、どうしてこんなに違うのだろう。
 立ち上がって、キッチンを覗いてみた。料理の本やら、ボール、泡だて器、砂糖入れ、牛乳などが出ている。
 愛美はオーブンを中腰で見つめていた。おれはそんな彼女に後ろから抱きついた。
「ちょっと、危ないよ、キッチンで」
 そう言いながらも、おれから逃れようとしない。くすぐったそうに笑い声を上げる。
「あと、どんくらいでできそう?」
「二十分くらいかな」愛美はリビングの方を指差した。「ほら、あっちで待ってよ?」
 二人で犬みたいにじゃれ合って、ソファまで辿り着いた。他に誰もいない、二人きりの世界。おれの行動はいつもより大胆に、愛美の声は甘えるようになる。
 隣り合って座り、申し合わせたようにキスをした。味わうように、深く、長く。放すと、愛美はおれの胸に顔をうずめる。髪の毛のいい匂いが鼻先に伝わる。頭を撫でてやると、くぐもった笑い声で応える。
 しばらく、二人で無言のまま寄り添っていると、オーブンのタイマーが鳴った。愛美は立って、足音をパタパタさせてキッチンに戻る。
 数分して、切り分けたブラウニーを満面の笑みで運んできた。香ばしい香りに反応して、つばが湧いてくる。これは、おいしそうだ。
「どうぞ、召し上がれ」
 一つとって、口に持っていった。柔らかい。甘い。おいしい。感想を聞かれ、「超おいしい」と答える。
「店に出せるくらいおいしい」
「大げさよ。これくらい、誰でも作れるわ」
 謙遜したが、まんざらでもなさそうだ。両頬にえくぼができる。
 もう一つ、食べた。何個でもいける気がした。口の中いっぱいに甘い香りが広がっていく。
 至福を感じるひとときだった。


 シーツの感触が地肌に直接、伝わる。隣で重なり合うようにして横になっている愛美は、下着だけ身にまとっている。かく言うおれもトランク一枚。
「ねえ、手を組んだとき、どっちの指が上になる?」
 指を組み、上に掲げて、愛美が尋ねてきた。おれは実際に組んでみて、「左手」と返した。
「へえ、私と一緒だ」
「これって、利き腕の問題じゃないの」
 おれと愛美はともに右利きだ。
「違うよ。この組み合わせって、生まれてから最初に組んだ組み合わせと同じなんだよ」
「え、じゃあ、左手を上にして最初に組んだってわけか。おれも、愛美も」
「そうよ」
 あどけない笑みをおれに見せる。「運命だね」
「右手を上にすると、何か違和感ある」
「そうだよ。だって、そっちは最初じゃないから」
 おれは手を解いて、そのまま愛美の頬に滑り込ませた。透き通っていて、みずみずしいその肌を手の甲で感じる。ゆっくりと愛撫して、手を裏返す。指先で軽くつまむ。すると、愛美は笑う。
「痛いよ」
 と言って、おれの頬をつまんでくる。その温もりに、不覚にも心臓の動悸が速まる。
「俊哉」
 媚びるような、人前では絶対に出さない声でおれの名を唱えた。おれはその瞳を見つめてやる。互いの瞳に、それぞれの顔が映っている。
「好きだよ、俊哉」
 たとえば、終わっている、と考えることがあっても、いつもその結論の先で待ち構えているのは、愛美の存在の大きさだった。おれの中で、他の何よりも、他の誰よりも目映い輝きを放つ。彼女がいれば、何も望むことないじゃないか。与えられるものは、彼女で全てじゃないか。
「おれもだよ」
「ちゃんと言って。好きだよ、って。愛してるよ、って」
 おれは腕を回して、愛美を抱き寄せた。
「愛してるよ、愛美」
 そして、唇を重ねた。幸福を分かち合うように、何度も。唇に残るブラウニーよりも甘い感覚を、確かめるように指でさすった。自分の指先で、相手の唇を。
 とろけそうな時間の中で、その余韻に浸りながら、徐々に目を閉じた。そして、夢よりも夢みたいな現実から、眠りの世界へと意識を飛ばした。


 朝、目が覚めると、愛美は体育着姿で歯を磨いていた。バスケ部の早朝練習があるのだ。休みの日も練習なんて、おれの愛美を縛りつけようとしているのか。
「あ、おはよう。起こしちゃった?」
 おれは首を振った。
「サボっちゃえよ」
 愛美は洗面所に消えていた。でも、声は届いているだろう。
 やがて、姿を現した。
「無理よ。後輩のうちは、簡単に休めない」
 タオルで口元を拭いながら、そう言った。表情は見えない。おれの甘えを咎めているのだろうか。それとも、「しょうがないな、もう」という、嬉しさと呆れの混ざった表情だろうか。
「親が夕方には帰ってくるから、それまでに帰ってね。ベッドとか、そのままでいいから」
 それと、と愛美は思い出したように付け加えた。
「それと、分かってると思うけど、痕跡残さないでよ。親にばれたら、終わっちゃうからね」
 愛美との関係が終わることほど、今のおれにとって絶望的なことはない。それが続くためなら、何だってする。痕跡を残さないくらい、楽勝だ。
「飛ぶ鳥あとを濁さず、ってやつか」
「そう。お願いね、鳥さん」
 悪戯っぽく笑った。朝から眩しい。
「二度寝しないでね」
「しない、しない。昼前には帰るよ」
「うん」
「他の人に見咎められないで帰るよ」
 一応、変装道具は用意してある。サングラスと、普段かぶらない帽子のみだが。
「気をつけて」
 愛美はバッグを肩にかけた。
「いってらっしゃい。頑張れよ」
 愛美はこっくりと頷く。手を振って別れて、ドアの閉まる音を聞いた。ベッドから下りて、着替えた。昼前に帰ると言ったけど、朝のうちに帰ることにした。

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