冬に咲く花 ep.4

     三章


 私は小さい頃から、落ち着いた子だったらしい。泣くことが少なくて、手のつかない子どもだった。かといって、いつもかわいく笑っていたわけではなかった。
 笑顔を手に入れたのは、小学校に入ってからだった。一緒に過ごす周りの人たちが奇妙な仮面を被ったように笑っているのを見て、私は彼らに同情した。かわいそうに、上手く生きるのには、あんな徒労を犯さなければならないことを知っているのだ。
 私は笑うようになってみた。相手が笑っていたら、合わせて笑った。うっかりひどいことを言ったら、笑ってごまかした。笑いの力を実感したが、笑いの疲れも覚えた。
 何も面白くない。
 気を抜くと、私は教室の片隅で無表情で佇んでいた。みんなが笑っているのに、虚ろな目をして彼らを眺めていた。
 次第に、私にはクールな女、というレッテルが貼られるようになった。勉強もできる方で、整った容姿もそれを手伝った。クール、と言われるのは楽だった。生きやすくなった。周りが私に求めるものが、私にとって無理なことではなくなってきた。
 高校に入ってから、圭佑に出会った。彼は私と似ている、と思っていた。クールで、勉強ができて、また彼はかっこよかった。私はてっきり、彼は私と同じような人生を過ごしてきたのかと思った。
 しかし、内側を覗いてみると、正反対のものが内在していた。私が内側まで冷め切っていて、それを周りに振りまかないように気をつけて生きていたのに対し、彼の内側はとても熱かった。その熱さで火傷を周囲に負わせないように、日々、抑えてきたようだった。
 彼は真面目だった。全てに手を抜けない人だった。何事にも、疎かにしている人を見つけると、彼らをときに憎しみのこもった目で捉えた。
 私は、危ないと思った。彼は将来、大きな成功を収めるか、理想とは隔たりのある腐った社会に押し潰されるかのどちらかの末路を辿るだろうと思われた。
 そして、そんな彼に惹かれていった。
 私から告白する形で、彼と付き合うことになった。


 季節に性別を当てはめるとしたら、冬は女じゃないかと思う。理由の一つとして、私が冬を好いていることが挙げられる。加えて、冬は私に似ている。冷たくて、乾いていて、透き通っていて。
 そんな好んでいる季節のさなかに、裕里の涙は訪れた。
 裕里が話を圭佑に持ちかけ、その話を共有するのに信用できる人数を圭佑が揃えた。裕里と仲のいい私と雪絵が呼ばれ、圭佑が信用している二本君と稲田君も呼ばれた。
 圭佑があの二人を信用しているのは、何となく分かる。二人とも圭佑に似ている。特に二本君は、危うさを抱いている所も似ている。
 三人とも正義感が強く、いまどき珍しい心のきれいな人間だ。表面上は、かたや頭の回転が速くて、鋭い洞察を展開するいまどき珍しい「善人」、かたや的外れな言動で笑いの中心にいる「ばか」。稲田君は無理して演じている、と思っている人もいるが、彼は本当にばかなのだ。良い意味で。だから圭佑は彼を信用した。
 普段は学年のトップグループと言われる人たちと行動をともにする圭佑だが、学校の中という縛りがなければ二人を親友に迷うことなく選んでいただろう。
 

 裕里の告白は、意外な話だった。失礼だが、裕里がいじめられるのは分かる気がする。でも、それを一人でこんなに長く抱え込んでいられるとは思わなかった。裕里は強いのだなあ、というよりも、彼女は少し変だ、と感じた。
 裕里の告白で、それぞれに怒りの色が浮かんだ。私自身、驚きの後、裕里を思う気持ちが犯人を憎む思いに変わった。
 その中で、この人は危ない、と直感的に感じたのは二人。圭佑と二本君だ。
 圭佑は持ち前の正義感の強さもそうだが、裕里に対する視線が気になった。それは愛情よりも、憐憫という印象を感じた。裕里と圭佑がどのくらい親しいのか、普段の二人からは全く読み取れないため、それは不思議でしかなかった。何か、私の知らない何かがあるようだった。
 一方、二本君は単純明快だった。彼は裕里が好きなのだ。圭佑と違って、日頃から話す機会のある彼の裕里に対する態度は、そうとしか考えられないものだ。私には分かる。
 誰かを想う力の強さは、ときとして恐ろしさを内包する。二本君は、間違いなく犯人を憎むだろう。それこそ、殺したいほどに。


「この中に犯人がいたら」
 圭佑と二人で、教室の後ろに並んで、小さな声で話した。別に聞
こえないようにする必要はなかったが、二人の遊びみたいなものだ。
「いると思うのか」
 圭佑の顔は、信じられない、という顔をしていた。彼は仲間を信頼し切っている。
「例え話よ。最後まで聞いて。――いるとしたら、裕里の苦しみは計り知れないわね」
「いるわけない」圭佑は憤然とした。「お前だって、さっき言ってたじゃないか」
「ええ、いると思ってないわよ。――問題は、裕里の心のこと」
「心?」
「そう」私はお腹の前で指を組んだ。「誰が犯人にしろ、その人が裕里にとって近しい人物か、そうじゃないにしても、これだけは言える。犯人は、この学校にいる誰かで、そして、裕里は少なからずショックを受ける」
 圭佑は俯いて、何か考え出した。
「そうなったとき、彼女の心をケアするのが私たちの役目ね」
「ああ、もちろんだ」
 圭佑は私を見つめた。鼻と鼻がくっつきそうなほど近かった。ちらっと彼の唇に目をやった。薄い唇がきゅっと引き締まっていた。
 彼とのキスは、悪くない。人生に面白さを見出すことが少ない私でも、彼と唇を重ねる瞬間は心臓の高鳴りを否めない。誰かが人間に備わした、子孫を残すための感情作用は、私でさえも御多分に漏れず、と言った所か。でも、彼からキスしてくれることはめったにない。初めてのときも、私からだった。それは私を想っていないからではなく、想っているが故なのだ。軽薄な付き合いをしたくないらしい。私はそんな彼の生真面目さがおかしかった。さすが、私が好きになった人。
「おれは今日、用事があるから」
 唇が、そう動いた。私は彼の顔から目を逸らさず、「あら、そうなの」と言った。
「じゃあ、先に帰るね。――あ、裕里たち、まだいるかしら」
「まだいるんじゃないか。走れば追いつくだろ」
 私は鞄を肩にかけて、慌しくその場を去ろうとした。
「じゃあね、圭佑。また明日」
「じゃあな」
 手を振って、別れた。このときは、同じ明日が――少しの変化があったとしても――劇的では決してない明日が訪れると思っていた。
 でも、現実は予想外の方向へ動き出していた。


 人生なんて、圧倒的な退屈としか私には思えない。
 つまり、生きているとどうしても疲れる。どうして、誰もが自由気ままに生きられる世界を神様は創って下さらなかったのか。まあ、神様なんて曖昧なものこそ、私は信じないが。
 人生に期待するのには疲れた。自分を飾るのも、ありありと飾っているのが分かる人と接するのも、もう嫌だ。
 人々が不幸な話のドラマで流す涙は、嬉し泣きなのだ。人々は、テレビ越しの彼らに同情しているだけじゃない。「ああ、自分はこれより幸せな人生を送っていて、よかった」と、喜んで涙を流すのだ。
 本当に優しい人なんて、この世の中には数え上げられるほどしかいない。いても、社会に押し潰されてしまうのがオチ。ただ真っ直ぐなだけでは、上手に世間を渡っていけない。器用さがなければ。一般人は、真っ直ぐな少数派を羨み、そして妬むからだ。
 二本君と裕里なんかその典型だ。二人は、これから先、現実のドブの如く汚い部分を知るだろう。そのとき、願わくはその純白な生き方を貫いて欲しい。でも、きっと不可能だろう。前述の通り、羨望と嫉妬の下に抹殺され、社会の異端者となるか、周りに流されてしまうのだろう。
 かわいそうに。理想の世界なら、二人は永遠に愛される存在なのに。
 二本君の裕里を見つめる眼差しを思い出した。
 二人は、とてもお似合いなのではないか。そんなことを考えた。


 身近な誰かが死ぬとき、嫌な予感というか、その兆しみたいなものがあるとよく耳にする。靴紐が切れる、マグカップの取っ手が壊れる、黒猫が横切る。そういったものだが、私には何の前兆も訪れなかった。
 犯人を捕まえる約束を守るため、私はいつもより早くに学校に行って、みんなが来るのを待つことになった。教室に着くと、他に誰も見当たらず、人の温もりを知らない教室は余計に肌寒かった。マフラーを外さずに、窓から外を眺めて待った。
 日が上がったばかりで、ほぼ正面から襲う日差しは眩しかった。日差しと反対側の方に目を向けると、隣に位置した幼稚園の校庭が見えた。先生が寒そうに身を震わしながら通ったが、それ以外は誰も見えず、ブランコが寂しそうに俯いていた。
 教室の明かりをつけて、誰かが入ってきた。
「何だよ、電気もつけないで。お化けかと思ったじゃねーか」
 満面の笑みで現れたのは、稲田君だった。彼は元気さを主張するように、この寒い冬もマフラーや手袋を一切つけずに、春や秋と同じ格好をして来る。
「稲田君、寒くないの?」
「おれ?」
 驚愕したように、大げさなリアクションを取って、自分を指差した。
「他に誰がいるのよ」
「お化けとか」
「いいから、そういうの。つまんないし」
「冷てーなー」
 稲田君はふくれてみせた。
「寒くねーんだよ、それが。ばかは風邪ひかねー、って言うしさ」
 私は笑った。
「何それ、ずいぶん自虐的ね。面白くないし」
「笑ってんじゃん」
 指摘されるまでもなく、自分で分かっている。彼の生来の天然加減は、私でさえも笑ってしまう。
 和やかな雰囲気が次第に教室を暖めた。
 その和やかな雰囲気を破ったのは、圭佑だった。
「おい、二人とも」
 勢いよくドアを開けて、大きな声で呼びかけた。その表情は、ただごとではなさそうだった。
「どうしたの?」
 圭佑、と言いそうになって、稲田君の手前、口をつぐんだ。
「何か――あった?」
 稲田君はおふざけをやめ、真剣な表情で尋ねた。彼でも、時と場所ぐらいわきまえられる。
「行きがけにニュースで見たんだけど――」
 そこで言葉を切った。言いにくそうに、言葉を探していた。そんな彼の姿を見るのは珍しかった。
「吹石が――殺されたって」
「えっ?」
 稲田君が口をあんぐり開けた。
「だ、誰に、いつ?」
 私も落ち着きを欠いていた。言葉は、たどたどしくなる。
「昨日の夕方、通り魔に襲われたって。――犯人は、まだ――捕まってないって」
 雪絵が死んだ。信じられない。ありえない。ちょっと、神様の悪戯にしては、やり過ぎだ。笑えない。ふざけるな。こんなことがあっていいのか。
 裕里が思いやられた。私よりも、彼女の方が大きなショックを受けるだろう。ただでさえ、いじめに苦しんで心が傷ついていたのに、その上、親友の死を受け入れろ、なんて。

 残酷すぎる。
 教室のドアが、再びけたたましい音を立てて開いた。現れたのは、息を切らした二本君だった。
「おい、大変だぞ」
 膝に手を当てて、教室の中を見渡した。
「石川は、まだ来てないか」
「ああ、まだだ」
 圭佑が答えた。
「それに、お前が言いたいことも分かる。今、おれが伝えた」
 二本君は中腰の体勢から圭佑を見上げた。
「じゃあ、もう知ってるのか――吹石のこと」
「ああ」
 圭佑は暗い顔で頷いた。「知らないのは、まだ来てない石川だけだ。いや、もしかしたら、石川もニュースで見るかもしれないな」
「そうか」
 二本君は相槌を打つと、一気に脱力したようにその場にしゃがんだ。走ってきた疲れが、その行動の原因とは窺えない。もっと、内面的な要因だろう。


「橋葉」
 わずかな沈黙を破ったのは、圭佑の私を呼ぶ声だった。二人のときは「亜実」と呼ぶけど、みんなの前だから憚ったらしい。冷静さはそんなに失ってないようだ。
「昨日、途中まで一緒に帰ったんだろ」
「ええ、そうよ」
 三人で会話らしい会話をしないで帰った家路を思い出した。合わせて、裕里の表情を思い出した。裕里は、犯人を恨まないと言った。彼女の優しすぎる性格が言わしめたものだろうが、支えてくれる友達の存在あってこそのものだ。雪絵の存在価値は、裕里の中で圧倒的な大きさを有していた。
 その雪絵がいなくなった。永遠の眠りに就いた。
 裕里は、それでも「犯人を恨まない」と言えるだろうか。
「何にもなかったのか」
「雪絵が最初に別れて、私と裕里はそれから少しして別れてけど、何にもなかった。怪しい人もいなかったと思う」
「――死ぬって、どういうこと?」
 稲田君の切羽詰った口調が割って入ってきた。彼に目をやると、頭を抱えていた。
「死んだ、って何だよ。通り魔、ってどういうことだよ。じゃあ、吹石は二度と現れないのか? そんなに突然、永遠の別れってくるもんなの?」
 稲田君は困惑の色を浮かべていた。彼の気持ちは、ここにいる誰もが理解できた。突然すぎる。思考の範疇を超えた出来事だ。
 それでも、これが現実だ。文句を言っても変わらない。いくら祈っても覆らない。私たちは、ひたすら受け入れ続けなければいけない。受け入れるのを諦めたら、人生を生き抜くのを放棄するか、死んだように生きるしかない。
「理人……」
 圭佑が同情するように呟いた。続けて、私の方を向いた。心配してくれているのだろう。私は頷いて、大丈夫だと示した。
 教室の人が多くなってきた。裕里は、ずいぶんと遅い。もう見張りは中止だけど、あったとしたら完全な遅刻だ。――雪絵は、永遠の遅刻だが。
 ばか。にわかに、雪絵にそう言いたくなった。ばか。雪絵のばか。簡単に死なないでよ。いきなりいなくならないでよ。
 周りは、沈痛な顔でざわめき合っていた。大方、ニュースを見た人がいて、その事実は余す所なく伝わっているのだろう。雪絵と親しかった人も、そうでない人も、同じように悲しみを顔に帯びているのは不思議だった。人間は、死の前にはそれぞれ等しく弱くなる。どんなに強がっている人も、現実を諦観しがちな人も――私が一例だ――死の前にはひれ伏すしかないのだ。
 そして、待ちに待った人の来訪を、パタパタと駆けてくる足音が告げた。
 裕里が来た。白い息を吐きながら、教室にそっと足を踏み入れた。
 私と目が合った。その目は、こんなときにもかかわらず、いや、こんなときだからこそ、無垢で、愛おしくて、美しく見えた。雪絵の死を伝えたら、この透明な瞳は、微かな染みができるかもしれない。
 裕里は何も知らないようだった。寝坊して、慌てて来たから、テレビを見る余裕がなかったのだろう。私は手招きした。
「何かあったの?」
 私は手招きしておきながら、私の口から伝えるのは気が重くてならなかった。
「朝、ニュース見なかったか」
 私に代わって、稲田君が切り出した。
「見てない、急いでたから」
 そのまま稲田君が説明を引き継ぐのかと思ったが、「石川」と、二本君の強い口調が遮った。
「落ち着いて聞けよ」
 彼だって、裕里を想っているのだから、伝えるのはつらいはずだ。
 でも、どうせ遅かれ早かれ知られることになる。
「吹石が死んだ」
 二本君の目は、裕里の目を真っ直ぐに捉えていた。でも、裕里はそれをしっかりと見つめ返せていなかった。茫然自失、といった態で、目を見開いて話を聞いていた。
「昨日、通り魔に襲われて、殺された」
 
 それから、数日が経っても季節は冬だった。寒い日が続いている。学校は、いっそう寒かった。心まで冷やされるような寂しさが、校内の雰囲気を占領していた。一人の死が、重くのしかかっている。
 裕里は、表面上は何ら変わりない。受け答えもきちんとできて、時折、笑顔も覗かせて、周囲を安心させた。
 でも、と私は思う。裕里は以前の裕里と全く異なっている。表面は、くたびれた感じを見せないけど、中身は空っぽだ。彼女は、生きている実感がないのではないか、そう考えても不思議ではない。目は落ち着きを含んでいるが、本当は何も見えていないのではないか。何も映らない、全てに意味を見出せない、繰り返される同じ世界を生きているだけなのではないだろうか。
 分かっている。
 それでも、傍にいることしか私にはできない。
 本来の裕里が戻ってくるまで、傍らで見守っていることしかできない。
 私は無能だ。いくら賢くても、彼女の心をきれいに洗い流すようなことはできない。もしできたら、どんなにいいか。それこそ、全知全能の神に取って代わりたくなるぐらい、そう思う。
 二本君と圭佑も、そして稲田君も同じような気持ちを抱いているのが、見ていて分かる。その気持ちの大小の差があるにしても、裕里を心配する眼差しは、私と同じだ。
 でも、何もできないもどかしさも同じ。私たちは、どうすることもできない、哀れな人間たちだ。

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