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【ヨガ話】「足るを知る」と向上心って両立する?(サントーシャ)

ヨガ哲学で人生振り返ってるその第7回はサントーシャ。ありのままの自分を受け入れるって、耳障りがいい。でも、ちょっとこれについて思うところがあって、その悶々も一緒に書いていくよ。

サントーシャの定義

「知足」=足るを知る、と訳される。英語だとentirely cotentedとかtotally satisfiedとか、完全に満足するという意味だそうで。ありのままの自分を受け入れるとか、与えられたものに満足するとか。

習ったばかりの頃はあんまりこれに疑問は持たず、ただ、私は実践できてないなぁ、とぼんやり思っていた。すぐないものねだりをするし、恵まれている状況を素直に受け取れないし、サントーシャはいいことだけど難しいよねぇってふんわり考えていた。しかし。しかしだ。

これって現状維持でOKってこと?
向上心とか成長意欲とかは持たない方がいい??
なんかそれ、せっかくヨガやってんのに豊かにならなくない???

こんな疑問があたまに浮かんで、どうもこの記事がするっと書けない。ひっかかってしかたないなら、その疑問もひっくるめて書いてみるか。書いてるうちにわかるかな。わかるといいな。てなことで書いていこう。

贅沢だと言われた学生時代

私がぎりぎり未成年だった頃。専門学校で俳優を目指して、毎日6時間授業をせっせと受けていた。全科目平均をすれば成績トップな自信はあった。でも、ダンスはこの子、歌はあの子、お芝居はその子…と、どの授業でも一番は別の子。子どもの頃から習ってきたバレエだけは一番でいたかったけど、それも学校じゃなくてバレエスタジオに行けば一番とはほど遠い。演劇史のテストで100点をとったときも、高校時代のクラスメートを見渡せばたいしたことではなかった。進学校だったので、現役で東大に進んだ子もいたし、国公立も私大も高学歴がごろごろいた。

友達はみんなたくさん褒めてくれた。あれもこれもできてすごいね、バレエはさすが上手だね、やりたいことを見つけて邁進していてすごいね、などなど。でも、どれもあんまり素直に受け取れなくて、「そんなことないよ」「まだまだだよ」と不満な顔を返していた。ある日、同期が真顔で忠告してくれた。褒めているのにまだまだだと言われる気持ちはわかる?贅沢だよ、と。まったくもって想像したことがなかった。そうか、私は謙遜しているつもりで、褒めてくれた相手を否定していたのか。その友達はちょっと悲しそうな、残念そうな顔をしていた。

思えば自分がベストを尽くしたかよりも、ひとと比べてどうなのか、ばかりに目を向けていた気がする。ヨガの大好きなところに、「ひとと比べなくていい」というのがある。隣のひとの方が脚が高く上がるとか、彼は前屈が深いとか、あのひとの方がポーズが綺麗とか。「一番になりたい」「一番でなければ満足してはならない」というのは誰かと比較しているから生まれてくる悩み。

褒められて嬉しくないわけじゃないんだ、そこで満足してはいけないと思い込んでいたのだ。今でも周りは多少気にはなるんだけど、褒められたときに反射神経で否定するのはストップできるようにはなった。これはひとつ、サントーシャ=足るを知って受け入れられるようになった、てことかな。

やらなかったの?できなかったの?どっち?

専門学校を出て、浪人して、四大を出てからやっとこさ初めての就職をした。同期は現役であれば3歳下。私の教育係、いわゆるOJTリーダーの先輩は2歳下。同期にとってはよき相談相手でなくては、と思っていたし、上司や先輩にはほかの若者よりは世間を知っていると思われたかった。そうはいっても未経験、残念ながら全然通用しない。自信があった作文も、お客さまへのメールは送る前に上司に赤ペンを入れられること3年。ポンコツなので毎日たっぷりしぼられて、入社時にあった自信は入社1年を過ぎたあたりには加速度的にしぼんでいった。

営業なのに売り上げが振るわない。目標を立てても達成できない。上司からはよく問われていた。「やらなかったの?できなかったの?どっち?」と。いつも「やらなかった」と反省して「次はやります」と答えていた。

今思えば、本当はできない自分をまっすぐ見るのが怖かったのだ。「やればできる」と自分を慰めたかった、あるいはやってもできない自分を見るのが怖いからやらなかった。ある先輩に「大森は勝てない勝負はしないよね」と言われたことがある。「やらなかった」は受け入れられるけど、「できなかった」は受け入れがたい。あのとき「できない」を受け入れたり、「できない自分に直面するかもしれないけどやってみる」を選択したりしていたら、と夢想する。もう少し自由に、のびのびと働けたのかもしれないな。

結局私はその会社を3年半で退職して、ずっと心残りだった演劇の世界に舞い戻ってきたわけだけど、あの3年半に骨の髄まで叩き込んでもらった社会人基礎力、みたいなものがいかに有用で、その後の私の仕事を支えてくれているかということを日々思い知ることになるのである。できないことを受け入れられていたら、もっと吸収できていたかもしれない。後悔先に立たず。

サントーシャのいう本当の自分、とは

「あなたはあなたのままで完全」というサントーシャは、ともすれば怠惰と紙一重である。満足する=成長が止まる、とか、向上心を持つと今の自分のままではいられなくなるから持たないほうがいい、とか、そういうことを差しているんだとしたら、たしかにちょっと呑み込みにくい。

だけど、その怠惰な自分って本当の自分、なんだろか。

ヨガの書籍を読み直して気づいたことがある。ヨガでは、本当の自分(アートマー)と自分の思考・自分の身体は別モノ、とされているのだ。こころも身体も「自分」が制御・コントロールする対象であり、動作主である「自分」は常に普遍で唯一無二で完全である、という考え方だ。つまり、さぼっちゃったり成長に背を向けたり集中力にかけたり…という思考・行動を選択するこころとからだは、正確に言うと自分そのものではなくって、そういうのを操縦するのが自分、なのだ。

そう考えると、「できない自分でOK、成長なんかしなくていいよ」とか「向上心なんか持ったらありのままの自分じゃなくなっちゃう」とか、そういう話ではないということ。常にベストな自分でいよう、そのベストな自分を邪魔する雑念とか執着とかは手放していこうぜ、というのがアパリグラハであり、無駄なことにエネルギーを使いたくなる欲求はコントロールしようぜ、というのがブラフマチャリアであり、ベストな自分を磨くタパスや自己探求のスワディヤーヤはこれから学んでいくよ、と。とりつくろったり見栄や意地を張ったりしなくていい。あなたはすでに素晴らしい自分を持っているのだから、ただそれを認めて、満足して、受け入れればいいんだよ、というのがサントーシャなわけだ。

ヨガレッスンの最後には胸の前で手を合わせて、感謝をこめて「ナマステ〜」でしめることが多い。ナマステってこんにちは的な挨拶の意味もあるけれど、サンスクリット語では「ナマス=敬う、礼拝する」+「テ=あなたに」を意味するそうだ。もちろんレッスンをしてくださった先生に対する感謝も大きいけれど、ヨガができる自分の肉体やヨガの時間を選んだ自分、あるいはヨガスタジオという環境やヨガを愛好できる平和な我が国、すべてに対してこころの底からナマステ、している。ここには冒頭に書いたような迷いや疑いはまったくない。とても穏やかで、静かで、満ち足りた瞬間である。

うまく文章の終わりが見つからないのだが、書きたいことは書けたし、自分なりのサントーシャは見つけられたと思う。たぶん、こういう「自分なりの落とし込み」がほしくてこの振り返りnoteを書いているんだろうな、私。

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