小劇場演劇が”商業的に成り立つ”べき理由

こんにちは。エリア51というアートチームで劇作・演出をしている神保治暉と申します。小劇場演劇に馴染みのある方もそうでない方も読んでいただけるよう、極力、気をつけて書きました。どうしても演劇用語とか出てきてしまうし、まわりくどい言い方にしかできなかったので長くなってしまいますが、ぜひ最後まで読んでいただけると嬉しいです。

なぜ僕がこのことを考えているかというと、小劇場演劇が商業的に成り立たつことがどんどん不可能になる時代に突入していると思われるからです。

今は家でスマホを見ていればいくらでも娯楽が手に入る時代です。ですがその半面で失っていっているものは確実にあります。ここではその影響については書きませんが、失うべきでないものの保存の方法のひとつとして、演劇がとても大きな役割を担うのではないかと僕は考えています。

もちろん、大きな劇場で上演されるミュージカルや有名な俳優が出演する舞台は、よほど日本のショービジネス界が転覆しない限りなくなることはないと思います。ですが、たくさん存在する劇団たちの自営の上で成り立っている小劇場演劇というジャンルのものはどうでしょう(助成を受けたりプログラムに組まれている上演作品の存在は確かにありますが、ここではそうではない大多数のものについて書きます)。

どんな企画も、組織的になればなるほど、どうしても自由度はなくなっていきますよね。僕は、小劇場演劇は大きな演劇よりも”しがらみ”の少ない場だと思っています。すなわち、自由度が高いということです。現代日本の風俗や思想、哲学や生き様をそのまま作品に昇華しやすい場だと思います。

では、そんな小劇場演劇がなぜ商業的に成り立つべきなのかについて書いていきます。

「演劇は娯楽か? 芸術か?」

まずはここから考えていきます。究極の質問ですが、ぼくの答えは「娯楽」です。なぜなら、演劇は観客がいて初めて完成するものだからです。

寺山修司の言葉で、「私たちはどんな場合でも、劇を半分しか作ることはできない。あとの半分は観客が作るのだ」というものがあります。劇を「出会い」だとする寺山らしい捉え方ですね。

また、ピーター・ブルックの言葉に「何もない空間を誰かが横切り、それを別の誰かが見ている。それだけで演劇は成立する」というものがあります。有名なフレーズです。これも逆説的に、演劇が演劇たりうる最低条件には、「見ている人の不可欠性」が含まれることを示しています。

やはり演劇は観客があってこそ成立するものなのです(いつか、無観客演劇が本当に成立しないのかどうか、検証したいとは思っています)。

演劇とは「なんかやってる」を「体験する」という関係性のこと

一旦、演劇を”上演されるもの”と定義づけます。すると、演劇は観客に"観せる"ために存在し、観客は"観る"ためにそこにいます。観る・観せるという関係になりますね。ブルックの例でいうと、”横切ったという事実”を観せることで、それを観た人が”演劇だ”と認識し、そこに演劇が立ち上がります。

では、演劇を"演劇するという行為"と定義づけるとどうでしょう。"横切る"という行為自体を演劇とするならば、この場合、観客はどこに居るのでしょうか。もしかしたら、観客は必要ないのかもしれません。でも、観客がいない演劇とは? 一体誰のためにその劇はあるのでしょう。

そもそも演劇とはなにを指すことばなのでしょうか?

舞台の上で行われるものだけが演劇でしょうか? 劇場でなくても、職場でも駅構内でも教室でも劇は起こります。つまり劇場は必要不可欠ではありません。では、ダンスは演劇でしょうか? 演劇ではないとするならばなぜでしょうか? ことばを発さないからでしょうか? サミュエル・ベケットは『息』という30秒の作品で、せりふもなければ人も現れない演劇を上演しました。つまりせりふや登場人物の有無は関係ないことになります。では歌謡ショーは演劇でしょうか? 演劇ではないとするならばなぜでしょうか? 歌は劇ではないからでしょうか? でも多くの場合、ミュージカルは演劇とされています。その違いは物語があるかないかでしょうか? ですがそれも、ベケットの例があるので否定できます。そして更に、人がいなければ演劇ではない、と言えなくなる日は近づいています。ロボットしか登場しない演劇が上演されたかどうかは分からないのですが、ロボットやアンドロイドが登場して芝居をする演劇はもう存在するからです。

ということは。演劇とは、

「なんかやってる」

ぐらいにしか定義しきれないのです。

先ほど触れた、"演劇するという行為"自体を演劇の定義とする場合、やはり観客は不要であるかのようにも思えますが、じつはそうではありません。その場合、演劇行為をしている人自身が、他ならぬ観客であるからです。ブルックの言葉をかりると、「横切る自分」と、「見ている自分」が共存している状態のことです。「なんかやってる」ときに、なんかやることで発生したあらゆることを、私自身が知り、「体験」しているということなのです。

つまり、すべてをまとめると、観客とは”体験している存在”のことなのであり、演劇とは、「なんかやってる」ことと「体験している存在」との関係性のことなのです。

芸術性は娯楽性に内包される

さて、演劇が「なんかやってる」にまで削ぎ落とされたところで、改めて考えたいのは、演劇は芸術か娯楽かという点です。

芸術とは、特異な性質や価値観を、技術や発想で表現することや、表現されたもの、のことをいいます。娯楽とはワーイ楽しい!みたいなことで、スポーツでも算数でも、本人が楽しければすべて娯楽ですよね。芸術も同じことで、それを芸術だとすればそれは芸術になり得ます。現代アートの先駆けといわれるマルセル・デュシャンは『泉』という有名な作品で、便器をそのまま芸術としましたから。

芸術か娯楽か、それは結局、人の感じ方次第なのです。スニーカーを芸術品だとする人もいれば、音楽を娯楽だとする人もいる。ということは、演劇が芸術か娯楽かという問題についてもやはり、人の感じ方次第なのです。

ではなぜ、ぼくは演劇を娯楽だと思うのか。厳密には思い”たい”のでありますが、それはずばり、演劇には観客が必要だからです。そして、観客が”体験するための存在”だからです。

ぼくは「発見」することが大好きです。知る喜びに変えられるものはありません。スマブラの新参戦キャラの動画を見るときの興奮はやはり、知らなかった/まだなかったものを知れたというよろこびなのです。では演劇でも、せっかく来てくれた観客に、なにか「発見」してもらいたいと思うのです。どんな小さなことでもいい、観客に新しい発見をもたらすこと、それは演劇の大きな魅力の一つだと思います。つまり、演劇が観る人にとって新しい何かであってほしいという僕の願いが、僕に演劇の娯楽性を発見させたのです。

それに、歴史を遡ると、演劇の起源とされる古代ギリシア(諸説あり)では、劇場は巨大複合娯楽施設の中に含まれていたのだといいます。温泉や食事をたのしんだあと、星空の下で松明を焚いて劇が行われていたとされています(当時は芸術と娯楽の差がハッキリ分かれていなかったのかもしれませんね)。やはり、演劇は娯楽と思っていいのだと思います。

ですが、もちろん演劇の芸術性は否定できません。なぜならば極論、それを観た人にとって芸術的であれば芸術となるからです。さらに、それを観た人とは、観客ではなく”鑑賞者”であり、ぼくは、芸術には”観客”は必要ないと考えています。

芸術とは”表現すること”に意味があるのであり、それは思想であり、哲学である。鑑賞者は、それを観ることで何かを考えることはできても参加することはできない(参加型のアートはあります。しかしそれは”鑑賞者が参加する”ことが概念的に包括された芸術なのであって、参加者がいることが芸術に含まれているだけであり、最終的にその芸術の外側にいる人は参加しておらず鑑賞していることとなる)と僕は思います。つまり、芸術とはどちらかというと作者の主観的なものであると言えます。鑑賞者に”伝わる/届く”という客観的事実は不可欠ではない=観客は不要なのです。

対して、娯楽の成立には二つ以上の立ち位置が必要なのではないでしょうか。それは”起こっていること”と”それを楽しんでいること”の二つの立ち位置です。つまり主体と客体のことであり、「なんかやってる」ことを「体験すること」に重要なポイントがあるのです。それこそ、演劇の根本的な核と一致します。したがって、演劇の芸術性は、演劇の娯楽性の中に”内包”されているべきだとぼくは思います。

娯楽はデザインされている

芸術か娯楽か、その問題を第三者が(必要ないことだが)決める方法があるとすれば、それは「なんかやってる」という行為とその状態が伝わる/届く必要があるかどうか、という線引きをするほかないのではないかと思います。そして、”伝わる/届く”ためには、”伝える/届ける”必要があります。つまり、伝えようとしているか、届けようとしているか。それはつまり、デザインとアートの違いと同じようなことでもあります。

デザインとは本来、用途や目的に応じて練られた計画などのことを差し、その本質とは「機能」だといいます。誰かに使われて初めて成立する(ロッテのトッポは、手にチョコがつかないデザインになっており、「食べやすさ」が伝わっています)。つまりは主体と客体の存在があり、そのものの”伝えたい/届けたいことを、伝える/届ける”という関係性が生まれるのです。ところがアートとは、技術そのもののことです。伝える/届ける以前に、その技術が存在している時点で完結しているといえます。

たとえば。サバイバルゲームに何のルールもなく、ただ撃って撃たれて戦い、非人道的な攻撃があってもやられるがまま、しかも何度撃たれても耐えうる限り立ち上がれるとしたら、それ面白くはないですよね(それはそれである意味、面白そう)。ゲームも、楽しみを届けられるようデザインされています。

またたとえば、陶芸の教室なんてのはどうでしょうか。陶芸の作品は芸術で、陶芸という行為は芸術とも娯楽ともとれます。教室ということは、何かを伝える場所であるため、デザインされている必要がありますね。一度に見れる人数や時間などの、工程がつくられています。つまり陶芸教室は娯楽的であるといえます。

つまり娯楽とは、伝わる/届くためにデザインされたものなのです。演劇も、伝わる/届くために上演されるべきだと僕は考えます。よって、僕は演劇を娯楽と定義したいのです。

・・・でも、もう、もはや、芸術か娯楽かについて考えるのはやめて、「娯楽芸術」という新しいジャンルのものとして捉え直すのは面白いかもしれません。

より多くの人が演劇に関われるために

おいしいパンでも面白い映画でもなんでも、何かを伝えたい/届けたいと思った時の、伝える/届ける方法を二つに分けたいと思います。ひとつは商業的方法、もうひとつはボランティア的方法です。商業的とは、対価をもらうサービスのことで、ボランティア的方法とは無報酬のサービスのことをさします。

どちらの方法でも、いろいろなサービスがあっていいと思います。もちろん演劇も同様に、商業的であれボランティア的であれ、さまざまな形があっていいのです。

と、ここで話を冒頭に戻します。

今は家でスマホを見ていればいくらでも娯楽が手に入る時代です。ですがその半面で失っていっているものは確実にあります。ここではその影響については書きませんが、失うべきでないものの保存の方法のひとつとして、演劇がとても大きな役割を担うのではないかと僕は考えています。つまり、演劇はなくなってはいけないのです。

とりわけ、小劇場演劇は大きな演劇よりも”しがらみ”の少ない場だと思っています。すなわち、自由度が高いということです。現代日本の風俗や思想、哲学や生き様をそのまま作品に昇華しやすい場だと思います。

より多くの小劇場演劇関係者が、持続的に小劇場演劇に関わっていけるようになってほしいのです。小劇場演劇に関わるすべての人が、同じ願いを抱いていると思います。

仮に、そんな願いが実現したとします。果たしてその世界では、みんながボランティア的な方法で演劇をしているのでしょうか。いいえ、やはり、多くの人が持続的に演劇と関わり続けるには、ボランティアだけでは成り立たないのではないかと思うのです。

ソーシャルな演劇

当然、それぞれの演劇をつくる人々が、それぞれに頑張ればいいと思います。好きなことをやればいいと思います。僕も、頑張ります。ですが、このタイミングで、小劇場演劇という土壌自体を見直してみてもよいのではないか、と思うのです。作り手が、演劇界の外側に向けて演劇を対外的に開いて、いろんな人を取り込んでいくべく、”演劇を見る人=演劇を演る人”という構図から「脱却」したいのです(そんなことは分かってるよ!とお思いかと存じます)。

そう思ったきっかけは、音楽や映画などのコンテンツが時代とともに変容しているのに対し、小劇場演劇という変容しようのないコンテンツが取り残されていると思ったことです。確かに小劇場演劇というもの自体は性質上、足を運んでもらう必要がある上に、多種多様でとっつきにくいです。そのため、対外的に開くことは難しいと思います。ですが、ひとたび演劇の世界に足を踏み入れたら演劇が大好きになるという魔力があると思います。僕もその一人です。そしてこの特性は活かせると思ったのです。

今、SNSで大量に拡散、交換される情報というのは、「わかりやすく」「手軽に手に入って」「消費しやすい」もの、つまり演劇とは真逆のコンテンツです。だからこそ、小劇場演劇は今からもっとウケるはずなんです。

ただ、そのためには”知られる”必要があり、知られたら”逃がさない”仕組みがあればなおよいと思います。ツイッターやインスタグラムで宣伝するだけでは弱いと思います。雑多な他の情報に紛れ込んでしまうからです。

僕が想像しているのは、小劇場演劇界専用のソーシャルメディアを立ち上げ、小劇場演劇をもっとソーシャル(=社交的)なものにするということです。そして、小劇場演劇界をもっともっとお金が動く世界にしていきたいのです。

多様だからこそ選びがいがあって面白い

お金が好きだから演劇を利用してお金をとるのではありません。持続させ、拡大するために経済循環に入っていく必要があるというだけなのです。

昨今の、小劇場演劇ビジネス問題は、”小劇場演劇は儲からない”という事実を今さら判明させたわけではなく、”小劇場演劇というものの捉え方を変えていく必要がある”という大きな転換期を向かえようとしているということなのです。

お金儲けが目的だからダメだとか、作品がつまらないからどうだとか、そういうことで排他し合っても意味がありません。演劇に対する考え方や姿勢、価値観が違うというだけで、小劇場演劇が好きという気持ちはみんな同じです。であれば、競合も共闘も、ソーシャルにやっていけたらいいなと思うのです。

多様性について考える機会が増えた近年ですが、多様性というのは単に色んな人がいていいということではなく、自身も他者も否定し得ない、それぞれの正当性があるということを、心の底で、すべてのことばで、理解して表現していこうということなのではないでしょうか。

それに、小劇場演劇ほど多様性のある「娯楽芸術」はありません。現に僕はどんな演劇が好き? と聞かれると困ってしまいます。それこそ、”みんな違ってみんな良い”わけですからね。むしろ選びがいがあっていい。こんな面白いジャンル、たくさんの人に楽しんでもらうほかないと思います。

CDショップがあるように、演劇チケットショップがあったらいいじゃないですか。ゲームの攻略本があるように、劇団ごとの攻略本があったら面白そうじゃないですか。伝えたいこと、見て欲しいことがあるから演劇をやる、のであれば、その活動がもっと大きくなって続いたら嬉しいじゃないですか。どんどん妄想して、どんどん人を巻き込んでいきたいですね。

どこへ行こう

そこで僕は、小劇場演劇界に、そして自分自身に、さらには自身の鏡たる他者に、こう言いたいのです。いまこそ、「書を捨てよ、町へ出よう」と。

ソーシャルな演劇についての具体的なプランは、残念ながらまだ完全なものではありません。ですが近いうちに、詳しく書こうと思います。ご意見や感想、質問などございましたらコメントをください。みなさんと一緒に考えていけたらいいなと思っています。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


クラウドファンディング挑戦中!

10月に上演する、エリア51の旗揚げ公演「ノゾミ」原案:書を捨てよ町へ出よう(寺山修司)の制作費を募るべく、クラウドファンディングサイト<Ready for>にて資金集めに挑戦しています。ご興味を持っていただけたら、ぜひご支援のほど、よろしくお願いします。

ページ内で、さまざまな企画も進行中!

◆出演者やスタッフ、他の劇団主宰が語る、十人十色の【みんなのノゾミ】

◆旗揚げ公演へと進む過程をお見せする【ノゾミに向かって】

◆クラウドファンディングを決めた理由や、「書を捨てよ町へ出よう」を選んだ理由、構想中の小劇場演劇ネットワーク構想など

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