『ゴールデンカムイ』と『進撃の巨人』 ー過酷な現実を生き抜く「3」の物語 ―

 『ゴールデンカムイ』が先月末に堂々完結した。『週刊ヤングジャンプ』(集英社)にて2014年8月より連載スタートした本作は、明治末期の北海道・樺太(サハリン)・極東ロシアを舞台に、アイヌの少女アシㇼパと、日露戦争で「英雄」となった帰還兵の杉元佐一(通称「不死身の杉元」)を中心に、隠されたアイヌの金塊を狙う複数の集団が乱立、裏切りや騙し合いを繰り返す物語だ。
    アイヌ文化や幕末明治史の細やかな知識を織り交ぜつつ、目まぐるしい転調と見応えある画面でテンポよく展開するストーリーは、息つく暇なく読者を最後まで導いてくれた。長尺のキャッチコピー(冒険・歴史・文化・狩猟グルメ・ホラー・GAG&LOVE!和風闇鍋ウエスタン!!)が象徴するように、要素てんこ盛りの本作の魅力を端的に述べるのは困難だ。
 強いて挙げるとすれば、多彩で個性あふれるキャラクターが跋扈することが、絶大な人気を獲得した要因の一つと言えるだろう。アシㇼパや杉元が道中を共にするメンバーは入れ替わり立ち代わり、その過程でそれぞれのキャラクターの思惑や生い立ちが見え隠れする。
    食人や獣姦といった際どい嗜好をもつ囚人たち、陸軍第七師団の鶴見中尉と彼に狂信的に従う兵士たち。個性の強さのあまり作者野田サトルや読者から「変態」と呼ばれる彼らに、隠された複雑な背景や事情があることがわかってくる(ことがある)と、読者はいよいよ「変態」たちに肩入れし、ますます物語にはまっていくわけだ。
 結末に向かうにつれ敵味方は、鶴見中尉と狂信者たち対、アシㇼパたちと土方の一味とに、二極化していく。その対立は次のように言い換えることができる。過去に憧憬を抱きながらそれに憑りつかれたものたちと、不確かな未来に不安を覚えながらもそこに希望を託すものたち。最終話「大団円」は、前者を葬るとともに、後者の行く末を祝福するかたちで締めくくられた。
 過酷な現実を前に未来を見据えるアシㇼパ。民族の未来を託された彼女は、民族のために戦うのでもなく、民族のうちに閉じて滅びゆくのでもなく、和人と共存することで民族の誇りを継承していくという3つ目の道を選ぶこととなる。
 アシㇼパが第3の選択を決断するに至った背景には、相棒の「不死身の杉元」という絶大な存在があるだろう。しかしそれだけではない。本作がアシㇼパと杉元、そして白石という、3人を中心とする物語であったことが、そうした結末を迎えるために決定的な意味を持っていたのではないか。さして強くもなく重要そうでもない、おちゃらけ役の白石こそが本作を、過酷な現実を生き抜き、未来を切り開く物語たらしめているのではないか。

過去に囚われたものたちVS未来を志向するものたち

 二つの「3」の話をする前にまず、『ゴールデンカムイ』が、過去に囚われたものたちと未来を志向するものたちという対立軸で貫かれていたことを確認しておく。
 まずは、過去に囚われたものたち。その代表は、無惨に散っていた第七師団の兵士たちだ。第七師団の鶴見中尉は、ヒトラーを思わせる巧みな人心掌握術で狂信的な部下を獲得していく。「愛」だと彼が言うその忠誠心は、部下たちの生い立ちやトラウマを巧みに利用し、自身にすべてを捧げるように差し向けるものだった。過去の因縁から救ってくれた鶴見を妄信することで彼らは、結局は過去の因縁に縛られ続けることになる。
 他方で、鶴見中尉その人もまた、金塊を奪って独立国家を企てるという目的の裡には、妻子の眠るロシア極東ウラジオストクを領土にしたいという私怨があるのではないかと部下たちに訝しまれる。別の場面では、第七師団の同志が多数眠る旅順の二〇三高地を手に入れ、そこを芥子の花でいっぱいにするという夢を語る。私怨にしろ大儀にしろ、鶴見の夢は、いびつな「愛」で結ばれた部下たちと同様に、過去に囚われている。
 歪んだ忠義心を持つ部下たち、さらには鶴見自身も斃れゆくなか、生き残るのは杉元たちと旅をするうち徐々に鶴見から自立していった鯉登少尉であり、鯉登が鶴見に彼を開放するよう懇願して呪縛から解かれた月島軍曹だ。生き残った彼らもまた未来を見据えるものたちであり、鶴見中尉と同志たちの死を見届け、次代の第七師団を担っていく将来が示されていた。
 アシㇼパは、未来を志向するものの代表だ。年若いから、というだけではない。彼女は父から、アイヌ民族の未来を託されていた。ロシアの革命運動に身を投じていた父ウイルクは、自身が生まれた樺太で、ロシア極東の反体制者たちと北海道のアイヌたちと共闘し、独立国家を建設することを目論んでいだ。そうすることで各々の民族の伝統的な暮らしが守られると考えたためだ。ロシアの革命家ソフィアと樺太アイヌのキロランケと手を組み、ロシアで皇帝殺害のクーデターを起こし逃亡、さらにソフィアを樺太にのこしてキロランケとともに北海道に南下する。
 身を隠すために北海道のアイヌと結婚し、生まれた子がアシㇼパだ。やがてウイルクは、独立した島である北海道こそを独立国家とすべしという考えに変わっていく。そのことにキロランケは失望する。大儀のためなら容赦なく味方をも殺すウイルクの非情さに憧れを抱いていたのに、アシㇼパが生まれたことによって、彼は私情で大義を忘れてしまったと嘆く。他方でウイルクは、キロランケこそが、ロシアで活動を続けるソフィアへの私情のために約束に縛られていると見抜いていた。ウイルクこそは徹底して非情であり、大儀を見失うことなく冷静に実現可能性のある未来を見据えていた。両者の対比も過去に囚われたものと未来を見据えるものの対比と言えよう。キロランケもウイルクも道半ばで果てるが、ウイルクには未来を託したアシㇼパがいた。
 それではウイルクにとってアシㇼパは、大義を果たすための駒にしかすぎないのだろうか。そんな疑問を抱く杉元に、鯉登少尉の父(鯉登少将)はいう。大儀のために自分の子を真っ先に戦いに差し出すのは当然だ。だからといってそれは、愛情がないということにはならないのだと。アシㇼパの記憶には、幼い彼女に熊を射させるなど厳しくも温かく彼女を育てるウイルクが刻まれていた。鯉登少将が言うようにウイルクは、大義を果たしてほしいという期待と、幸せに暮らしてほしいという愛情とを、どちらも欠けることなくアシㇼパに注いでいたように見える。
 鯉登少尉もそのように父に育てられたのだろう。「愛」を語り、その実「王」と「駒」の関係でしかなかった鶴見と部下たちには、破滅的な(であるがゆえに甘美な)結末しか待っていなかった。ひとり鯉登少尉だけが、鶴見中尉に妄信的に従うでもなく、騙られたことを知って造反するでもなく、フェアに鶴見中尉の行為の是非を見定めようとしていた。
 大儀か私情か。妄信か造反か。そうした二項対立に囚われることのないものこそが生き残り、未来を切り開く。そういう物語の中心にあったのが、アシㇼパと杉元、そして長く旅をともにする白石という3人だった。 

3人の主人公

 『ゴールデンカムイ』の主人公3者の関係は、『進撃の巨人』の主人公3人の関係に似ている。
    壁に閉ざされた国に生きる人類が、壁の外を支配する人を食べる巨人の謎に迫るうち、しだいに壁の国の、そして世界の成り立ちの虚を暴いていく。『別冊少年マガジン』(講談社)で2009年9月から2021年4月まで連載され完結した『進撃の巨人』は、容赦ない命の奪い合いが連続する点で『ゴールデンカムイ』と重なる。『ゴールデンカムイ』でアシㇼパの父が「弱いものは負けて食われる」と彼女に言い聞かせるように、『進撃の巨人』で主人公エレンは「戦わなければ勝てない」と何度も自分に言い聞かせる。
 巨人の圧倒的な力を前に絶望的なほど無力な人類を描写する『進撃の巨人』で、エレンは一縷の希望となる青年で、意思を持ちながら巨人になる力を持っている。後にそれは彼の出生、彼の父や家系に起因することが明らかとなる。巨人化する能力を持つがゆえに迫害を受けてきた人種・エルディア人の未来が、彼には託されていた。
 アシㇼパとエレンはともに、父によって、ある民族ある人種、いわば血縁で結ばれた集団の未来を託された若者だ。彼らはいずれも悩みながらもその運命を受け容れ、真摯に思考し事態を直視する。ともに生まれつき背負わされた集団の尊厳を守るという命題と、その尊厳を揺るがす外部との軋轢に、苦しむ。両者を分かつのは、最後に両者が導き出し、選択した結論だ。
 アシㇼパは、和人社会と共存の道を探ることを選択する。父の意思を継ぎながらも、父のように独立国家樹立をめざして戦いに身を投じることは選ばなかった。他方でエレンは共存を選択しなかった。自分たち民族に苦しみを与えた世界を許すことはできないと、世界を破滅することを選択する。ただし、仲間が自分を殺すことで、世界を破滅から救うと信じながら。
 アシㇼパとエレンの選択の違いはどこから生じたのだろう。仲間の違いが、大きな要因だろう。アイヌ民族でない日本人やロシア人たちまでもが、アシㇼパのために命を賭していた。エレンの仲間はたまたまみな同じエルディア人だった。仲間のためという点では、二人の選択は同じともいえる。  

「新世界系」と3人組

 仲間のために。アシㇼパとエレンのその選択は、両作品の構造によって、あらかじめ仕向けられている。どういうことか。
 『進撃の巨人』を、「新世界系」と称するひとたちがいる。2000年代に、ある傾向を持つ漫画やアニメやライトノベルなどに対して敷衍した「セカイ系」という分類名に対応する意味でつけられた呼称だ。
    「セカイ系」とは、若い男女の恋愛関係を典型とする狭小な人間関係が世界の危機や終末を左右するといった極端なファンタジーに基づく物語構造を指す。90年代から00年代にかけての作品に顕著に見られ、社会や国家といった中間領域の描写やリアリティを欠くという特徴が指摘されている。
 「新世界系」の提唱者のうち海燕によれば、「セカイ系」はそうした中間領域いわば「現実世界」を「巧妙に隠蔽」している。その「現実世界」を「悪夢のように過酷で残酷」に描き出すのが、「新世界系」だという(*1)。加えてペトロニウスによれば、「セカイ(=偽り)」と「世界(=現実)」の境目に現れる世界の厳しさを、そこに挑戦する登場人物たちにつきつける作品を「新世界系」と呼ぶという(*2)。
 ゆえに「新世界系」作品では、「セカイ系」作品では描き得なかった、「むき出しの「生」」の「ある種の可能性」(海燕)や残酷さゆえの「美しさ」(ペトロニウス)が表現されるという。かわんが指摘するように、「セカイ系」と「新世界系」の違いは、基盤としていた時代の空気の違いを浮き彫りにする(*3)。「セカイ系」作品が受け入れられたのは、「社会から押しつけられる価値観を拒否したとしても、案外、人生は楽しく暮らせるという余裕が社会にあ」った時代であり、「新世界系」が受け入れられる現在は、「現実がいかに厳しくてもそれから逃避することができなくなってきた」時代と言えよう。
 「新世界系」の前提となる「過酷で残酷」な「現実世界」は、『進撃の巨人』では人を食う巨人に支配されているという架空の設定によって、『ゴールデンカムイ』では戦争や革命そして狩猟を糧に生きるアイヌ民族という史実に根差した設定によって、担保されている。さらにかわんによれば、ペトロニウスは次のように主張しているという。「新世界系」作品では世界の秘密はどうでもよくて、そのなかで主人公たちがどう生きたのか、その生き様と仲間達のキズナを描くのが重要である。この推測が、連載終了した『鬼滅の刃』によって裏付けられたという。
 「新世界系」の提唱者や賛同者の見方に従えば、「新世界系」作品の代表と彼らが述べる『進撃の巨人』と、彼らは「新世界系」と位置づけているか確認できないが定義に適うと思われる『ゴールデンカムイ』で、主人公のエレンとアシㇼパが仲間ための選択をしたことは当然の帰結と言えよう。しかしそのときそこではどういうメカニズムが働いているのか、疑問がのこる。
    そこで注目したいのが、両作品に共通する、三人の主人公とその関係である。本稿では詳述しないが、提唱者が挙げる「新世界系」作品、例えば『約束のネバーランド』(集英社、2016-2020)『鬼滅の刃』(集英社、2016-2020)『呪術廻戦』(2018-)いずれもが、メインキャラクターが3人組で活躍する。
   「3人」であることになにか必然的な意味があるだろうか。宮台真司によれば、『進撃の巨人』では3人の主要キャラクターの設定の妙こそが、本作の成功を導いたという(*4)。以下、宮台の指摘も踏まえつつ、3者の関係を見ていく。

「君と僕」を超えて

 アシㇼパとエレンがともに血縁集団の未来を託された者であり、集団の尊厳と外部との軋轢に苦しむ存在であることは先に見た。宮台によれば、エレンは自身が属する集団が、法に敏感で仲間(掟)に鈍感であることに怒りを持つ。「新しい時代のアイヌの女」を自負するアシㇼパも、集団の既存の価値観を重視しない。他方で集団の外から訪れた、杉元たち仲間との絆を、重視する。
 アシㇼパとエレン、両者を力強く支えるのが、アシㇼパ/エレンを傷つけるものを許さない「不死身の杉元」と最強の戦士ミカサだ。二人とも襟巻/マフラーがトレードマークとなっている。孤独な身でありながら、孤独から救ってくれる人のために身を捧げる、共通の記号といえよう。宮台によればミカサは、仲間を含む共同幻想を生きるエレンに対し、エレンとミカサという対幻想に閉ざされた不幸な存在だ。それがミカサが、そして杉元が、不死身かつ最強である理由である。迷いながら歩むアシㇼパやエレンとは異なり、杉元とミカサには一切の迷いがない。守るべきただ一つの指標が、アシㇼパもしくはエレンだからだ。すべての選択、行動、エネルギーをそこに投入する彼らに、敵は到底太刀打ちできない。
 主人公とその信奉者が物語の中心となる両作品はしかし、僕と君だけの物語には終始しない。なぜか。絆を結ぶもう一人の仲間がいるからだ。ゴールデンカムイでは白石由竹、進撃の巨人ではアルミンが、いつも二人のそばにいる。
 特技=脱走の元囚人白石は、信用のおけない人物だ。どの組織に与するか、時と場合に応じて使い分け巧みに世渡りしてひょうひょうと生きている。要するに指標がない。だから杉元のように信頼も置けないしさして強くもない。しかし、どんな状況でもあらゆる手段を使って生存していくという、したたかさを備えている。彼の気持ち悪い特技と突飛な発想で、幾度も窮地を乗り越えてきた。
 弱虫泣き虫のいじめられっ子のアルミンは、もっとはっきり弱い。しかし壁の外への憧れが誰よりも強く、エレンはアルミンに惹かれて外の世界を志向する。兵団では機転を利かせて戦略を練り、敵の意表を突いて何度も窮地を救う。宮台によればそれはアルミンが、万物への普遍主義的な「開かれ」を生きるがために、様々なアイディアや閃きが「やってくる」存在だからだ。
 どっちに転ぶかわからない危うさがあるものの、文脈から外れた思考で、ものごとを解決に導いていく。こうあらねばならぬという縛られや囚われが、白石とアルミンにはほとんどないように見える。
 両作品ともに、3者はそれぞれ、互いにないものを認め合う。誰か一人でも欠けると、物語は展開せずに破綻するという構造になっている。杉元/ミカサがいなければ残り二人はさっさと殺されてしまうだろうし、白石/アルミンがいなければ難関な局面で行き詰まる、アシㇼパ/エレンがいなければのこりの二人には生きる指標がないので、なにか目的に向かうという発想がない。
 3者が協働することで、「僕と君」という閉じた世界ではなく、3者が社会と関係を取り結んだ世界が描かれる。3者を超えたより大きな仲間との絆や集団同士の衝突や軋轢を描き得るということだ。だからこそ、各々込み入った事情や歴史を抱える登場人物たちや集団とメインキャラクターとの関係がいきいきと織りなされ、複雑で立体的な作品が生み出されているのだろう。

第3の道へ

 山野で狩猟をしながら育ち、さまざまなものに宿るカムイに敬意を払いながら生きてきたアシㇼパは、そもそも自らの弱さに自覚的な存在だ。聡明かつ謙虚であり、それ故の芯の強さをもつアシㇼパは、敵味方の別なく皆から一目置かれる。杉元のようにこれと決めたら曲げずに貫く強靭さも、白石のように囚われなく状況に応じるしたたかさも、どちらも兼ね備えている。二人との旅で、一層確かにそう成長した彼女からは、最後には迷いが消えていた。
 アルミンの開かれた感性に惹かれながら、ミカサの閉ざされた強さに救われてきたエレンの場合は、両者を兼ね備えるのではなくむしろそれらに引き裂かれたように見える。民族の怒りを表明しつつアルミンとミカサに未来を託す道を選んだ。
 翻って考えると、アシㇼパとエレンの選択はいずれも、二者択一のどちらかを選び取るものではなかった。戦うか滅びるかという二者択一から前者を選んだ父ウイルクは、アシㇼパを育てるうちに、彼女に未来を託すという第三の道へと歩みを変えていった。アシㇼパもまた、戦うことも滅びることも選ばず、和人とともに未来を築く道を選んだ。エレンは逆に、戦って滅びる、つまりどちらをも選んだといえるだろう。その実はウイルクよろしく、仲間に未来を託していた。民族の怒りと怨み、過去とのしがらみを、一身に引き受けながら。
 二者択一のどちらかを選ぶのではなく、第三の道を歩むこと。両作品は、物語の構造に沿うように、結末もそのように締めくくられている。賛成か反対か、二項対立の二極化が激しさを増す今日の社会でヒットに恵まれたこの二作は、人知れず処方箋の役目を果たしていたのかもしれない。
  次の、別の処方箋は偶然にも、アシㇼパとエレンの選択を言語化したかのように響く。

ぼくたちは、あらゆる政治的な問題について、加害側に立つのか被害側に立つのか、その選択をたえず迫られる時代に生きている。
けれども、おそらくは悪については、加害と被害の二項対立ではなく、三項鼎立で考える必要があるのだ。加害者、あるいはより広く加害の文化の継承者は、井戸に潜ることではじめて、加害を忘却するのでも、また被害者の物語に身を委ねるのでもなく、加害そのものの愚かさを記憶し続けることができるのではないか。

東浩紀「悪の愚かさについて、あるいは収用所と団地の問題」『ゲンロン10』
株式会社ゲンロン  2019年

   東のいう「井戸」とは、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』から取り出されたものであり、「井戸に潜ること」は「加害を忘却するのでも、また被害者の物語に身を委ねるのでもなく、加害そのものの愚かさを記憶し続けること」だという。重要なのは、村上春樹がこのことを『ねじまき鳥クロニクル』という文学作品で表現したことだ。東は、村上春樹が「井戸の洞察=文学の力」を訴えたことが、重要なメッセージであるという。
 『ゴールデンカムイ』と『進撃の巨人』もまた、アシリパとエレンが「井戸に潜る」がごとく思考し、三項鼎立で未来を切り開いたことを、漫画という形式で読者に伝えるものだった。
 加えて、『ゴールデンカムイ』と『進撃の巨人』、両者に共通の特徴は、敵味方の多数のキャラクターが、それぞれに複雑な背景をもち、それぞれに複雑な関係を取り結ぶことだった。漫画という形式は、文学とは異なり、そうしたキャラクター同士の関係を絵によって瞬時に理解させるものだ。恋愛感情、敵対意識、嫉妬や憧憬、そうしたそれぞれの関係が絵によってその都度形成されては変化する。敵味方や加害被害が単純に分けられないことを、わたしたちは、漫画に登場する敵や加害者に肩入れすることを通して痛感する。
 これもまた、「井戸の洞察=文学の力」の一種と言えるのではないだろうか。この「井戸の洞察=文学の力」こそ、今日のわたしたちが過酷な現実を生き抜くために備えるべき、唯一の武器ではないか。

   ところで、『ゴールデンカムイ』の本当の最後は、白石が密かに金塊を持ち出し、どこか知らぬ土地で独立国を建国したという顛末で締めくくられる。第3の道、したたかな生き方の勝利がコミカルに表現されるものだった。彼はひっそりと一人、金塊の隠された井戸に潜っていたのだった。

■参考
*1
海燕「セカイ系と新世界系(シン・セカイ系?)の長い物語。」
https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar1915831)
*2
ペトロニウス「『進撃の巨人』2013-2017 Season 1-3 荒木哲郎総監督 諫山創原作 新世界系の到達点-世界は残酷だけれども美しい、その解像度をあげろ!」
https://petronius.hatenablog.com/entry/2020/01/11/011032
*3
かわん「シン・セカイ系への誘い」
https://kawango.hatenablog.com/entry/2020/06/01/233919
*4
宮台真司「『進撃の巨人』は物語ではなく神話である」『進撃の巨人という神話』 blueprint 2022年

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