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隠したつもりでも漏れてくる、それが個性なんだな

気の置けない仲間と飲んでいるときに撮ってもらった一枚。
自分には見慣れない顔がそこにあって、
「え!?」と戸惑った。
沸き起こってきたネガティブな感情。

オレンジワインを片手に


これが私?
なんか顔、崩れてない???

素直にそう口にしたら、
「崩れてるんじゃない、ほぐれてるの!」
一緒に飲んでいた仲間が若干強めに訂正してくれた。

この写真を撮ってくれた別の仲間は、
私のこの表情がいいと思って、シャッターを何度も押してくれたそう。
「はるみちゃんが笑うとこんな感じだよ」とも言ってくれる。

鏡で見る自分の顔は、もっと澄まし顔だ。
集合写真や記念写真に収まるときも、いい感じに写るように意識している、かも。
うん、意識している。顔、つくってる。
見慣れた自分の顔は、そういう顔だ。

でも、この時は仲間と共に過ごす時間がうれしくて楽しくて、
その気持ちをめーいっぱい表現したら、こうなった。

私、こんな顔してるんだ……。
この表情がいいんだ……。

仲間の温かな気持ちを、私はまだ受け取れきれていない。


自分が自分を否定している

私はいつも近くにいてくれる人たちの言葉すらも、素直に受け取れないことが多い。

最近、こんなことがあった。
「他の人には話せないけれど、はるみちゃんだから話せた」
そう言ってくれた人がいた。
何かを押し付けられる感じがなく話を聞いてくれるから、って。
その言葉は素直にうれしい。
本当にうれしい。

でも、一方でこうも思っている。
私は八方美人だから、誰にでもつい“いい顔”をしてしまう。
嫌われたくないから、つい反射的に。
最近はそれにも気づいているけれど、長年の習性はそう簡単には変わらない。
私のことを「やさしい」と仲間たちは言ってくれるけれど、
「それって本当に私の“やさしさ”なの?私に騙されてるんじゃない?」
と思ってしまう。

それもその人に伝えてみた。すると、
「八方美人と自分で気づきながら、
それでも寄り添おうとしてくれることが分かるから、
それがうれしいんだ」と言ってくれたのだ。

あぁ、そうなんだ……。
私以上に私のことを見てくれて、受け入れてくれている。
そんなふうに感じて、涙が出てきた。

ちょうど同じころ、別の仲間とも似たようなやり取りがあった。
「私に騙されてるんじゃない?」を連呼する私。
どうしても自分のことを信じられないから、
この言葉が口から出てくるのを止められないのだ。

すると、
「騙そうとする人はそんなことは言わないし、
はるみちゃんの素直さや正直さはだだ漏れてるよ。
そしてそれがはるみちゃんの魅力だよ」。

……。

だだ漏れ!?

言葉が体内でリフレインする。

だだ漏れ、だだ漏れ、だだ漏れ。
だだ漏れ、だだ漏れ、だだ漏れ。

そうか、だだ漏れてるんだ。

そう思ったら、気づいたことがある。
私はだだ漏れしているものを、必死で隠そうとしていた。
私の中から漏れ出すものを、必死でかき集めて、「漏れてませんよ~」と澄まし顔をしていた。

私にとって「素直さ」や「正直さ」は、「子どもっぽい」とか「人生経験が浅い」といったネガティブなイメージと結びつく。
これはまた別の問題として扱う必要がありそうだけれど、
だから「素直」「正直」といった言葉をかけられても、受け取りづらいのだ。

でも、だだ漏れてるなら、しょうがないよね。
きっとそれが「私」なんだろうな。

まだ受け取りきれてないけれど、一つだけ分かっていることがある。

だだ漏れているものを隠そうとすることほど、ムダなエネルギーの使い方はない。

私は、だだ漏れているものを、だだ漏れさせておくことにする。
それが私にとって一番自然なことだと思うから。

もう一度、仲間が撮ってくれた写真を眺めてみる。
目が消えそうなくらいに細い。
団子鼻が気になる。
でもまぁ、楽しそうではある。
実際、楽しかったし。
めちゃくちゃ笑ってる。

しばらく見ていたら、見慣れてきたかも。
うん、見慣れてきた(^^)

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