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続・奇妙な連休

奇妙な連休」の続き。

前にも書いたことがあるかもしれないが、毎日書いていたら何を書いて何を書いていないかもう覚えていないし、全く同じ文章になるということはないはずだから、もしそうだとしたらまた書くということになる。

さて以前、20代の後半、会社勤めをしていた頃には、休みの日がものすごく嬉しかった。当時、休みの日とは、会社に行かなくていい日のことだった。

会社が嫌いだったのか。会社が好きで好きで仕方がないなら、行かなくていいとなっても嬉しくないはずだ。ということは嫌いだったのかもしれない。

たとえば週末、土日の2日間が休みだとすると、土曜はウキウキだ。土曜の夜なんか楽園のような感じで、嬉しい気持ちで眠る(ついでに言うと金曜の夜はもっと楽園度が高い)。

日曜の朝は、あぁ、もう日曜か、という気分で起きる。午後になると、世界は憂愁の色を帯びてきて、夜になると色が抜けてしまっている。

休みの日の話をしているので、このあと、そうでない日のことを書くのは止めよう。

連休が3日になると、憂愁の色を眺める時間が増える。4日になるとますます増える。10日も休みがあると、後半の数日はもう憂愁の風に吹かれて過ごさなければならないだろう。可哀想に。

これは日々の時間に色をつけて過ごしていた頃の話で、気持ちの浮き沈みは激しかったような気がする。何事も、盛り上がれば、必ず盛り下がる時が来るわけだ。

そういう暮らし方は、精神衛生上よくない。と、いま考えたらよくわかるが、当時はそれしかないような気がして苦しかった。

いまは毎朝の日課(朝のページ)があり、家事があり、日々の仕事(平日・休日など関係がない仕事)があり、ここに書くのも日課のようなもので、少し先を目指してつくったり、計画したりする仕事があり、たんたんとしている。

平凡な日の繰り返しといえばそうだが、毎日毎日、一年中、平凡な日を過ごしていて、憂愁の色を眺めることもなければ嫌だと思うこともない。

以上の話は、単にぼくが会社勤めに合わない人だったというだけの話なのかもしれないし、それ以外の何かメッセージを含んでいるのかもしれない。よくわからないまま書いた。

(つづく)

今日は、2019年の123日目なんですね。

「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"、1日めくって、5月3日。今日は、昨日に続いて子供の絵の話、そして、消しゴムハンコの話。

※"日めくりカレンダー"は、毎日だいたい朝に更新しています。

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