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道草家の仕事

2019年も3分の1が過ぎた。

ここ(「道草のススメ2019」)は、今年の元旦に何気なく書き始めて(その日まで、今年は毎日こういうことをやるぞぅと決めていたわけではなかった、成り行きだ)、毎日ダラダラと書き続けている。

「毎日書かなければならない」だけであとは何でもよしということにしているので、質にも量にもムラがあるはずだが、そんなことはどうでもいいので読まれている方もそれ(質と量)以外のところで読んでいただけたら、と考えはするのだけれどそれがどういうことになるのか自分でもよくわからない。

ま、よくわからないことに付き合うのも、悪くないですよ。

先日、リニューアル・オープンした東京都現代美術館には、鈴木昭男さんの「点音(おとだて)」という作品が館内、館外のあちこちに置かれている。

名付けて、「道草のすすめ」らしい。

(※無料で配布されているこの冊子を開くと、館内・館外の地図が描いてあり、どこに「点音」があるか記してあり、それを見ながら辿る。殆どは無料で辿れるが、一部は展示会場内に設置されてるから、そこは有料)

このタイトルは他人事とは思えないし、ぼくは2011年の1月に鈴木さんの話を聞いたことがあり、なるほど、と思った。

(ちなみに、この「道草のススメ2019」はその鈴木さんの作品にインスパイアされてつけたタイトルではないんですよ、もとのブログ「道草のススメ」は2010年からやっていたものだしネ、どうでもいい話ですけど)

この「点音」という作品は、"見る"のではない。"聴く"作品で、このマークの上に立って、耳を澄ますことによってこの作品は存在し始める。

聞き耳を立てる、というが、ここでは「耳に立つ」、いやそこにいる自分自身が「立つ耳になる」のである。音はこもったり、解き放たれたりするし、その場の色を帯びている。耳を澄ましていると、いろんなことが見えてくる気がする。自分の中にたまっている何かが解放される気がする。

以前も書いたことだけれど、いまの人は(自分もだが。目の不自由な人でない限り)あまりにも目に頼り過ぎている。社会自体が見ることを前提に成り立っている節すらある。見る以外の感覚は、随分と衰退しているんじゃないかという気がするが、しかしかつて物語は"聴くもの"であっただろうし、音の世界は(おそらく)いまの人が思っているより遥かに深くて大きい。

音は、時間の中に鳴る。早送りすることはできない。固定して見ることもできない。人間の都合で扱いやすいようにはできない。

(録音技術の発展は画期的なことだっただろうが、録音された音も、それを聴く時以外には存在しえない)

都合よくゆかないというのが、まさに"道草"の極意なのだ、とぼくは思う。

だから、人生には道草が必要だとか、道草こそが人生だとか、そういうゴタクを並べようとする人生訓好きには悪いけれど、道草というのはそういうものではない。

道草とは、ついついしてしまうものである。

道草はしてもしなくてもいい。

でも、思わずしてしまった時には、その時間は大切にしよう。

(つづく)

「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"、1日めくって、5月1日。今日は、うどんの話。

※"日めくりカレンダー"は、毎日だいたい朝に更新しています。

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