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[復刻版]“可笑しさ”の妙~映画『サウダーヂ』の初見(2011年6月)

先週、空族(くぞく)の映画『サウダーヂ』を約11年ぶりに観ました。
懐かしく感じつつも、11年前には見えなかったことも、いろいろ見えてきました。そのことを書く前に、11年前、自分がウェブ上に書いていた文章を読み返してみました。今日はそれを、そのまま[復刻版]として、ここに再掲します。
2011年の秋に『サウダーヂ』がいよいよ公開! という頃に監督の富田さんから、この文章を劇場で配るフリー・ペーパー『Small Park』に載せたいと言われて、それなら、と推敲の手を入れて寄稿しました。
その文章を、ここに載せようと思ったのですが、肝心の『Small Park』がなかなか見つからないので(『サウダーヂ』のパンフレットに挟んであるはずなので紛失はしてないはずなのですが、そのパンフレットが出てこない)、初出の文章をそのまま、前後も含めて全文掲載します。
当時、Bloggerで毎週1回、書いていた「アフリカン・スクラップ・ブック」より、2011年06月12日の回。

回復とは回復しつづけること。変化しつづけることが、安定することなんだ。(上岡陽江)

『アフリカ』第11号(2011年6月号)を読んでくださっている全ての皆さん、また、関心をもってくださっている皆さん、ありがとうございます。
相変わらず販売方法が曖昧なので、困っている方がいらっしゃれば、申し訳ありません。
購入にあたっては、お金を送ってくださる方はもちろんですが、お手紙やメールをくださる方もありますし、中には野菜を送ってくださったり、まだ会ったこともないぼくに「ご馳走しよう!」なんていう稀有な方までいらっしゃって、たいへんありがたく思っています。
『アフリカ』は、つくっている我々だけでなく、読者の皆さんも巻き込んで、何かを考えるきっかけにしたり、ひそかに「語り合う」ことができるような、そんな「場」としての雑誌になれば良いなぁと思っています。
出たばかりの第11号(2011年6月号)はもちろんですが、第10号(2010年11月号)も、実は事情あって先日、増刷したばかりなので、在庫があります。
ぜひ読んでみたい、という方、良い機会ですので、ぜひごご講読ください。『アフリカ』について、詳しくはこちらをご覧ください。

ざっくり感(「ざっくりでいい」という感覚)が、この世の中、ない。もっとあっていい。(空族トーク at "DOOM! Radio")

さて、その『アフリカ』第11号(2011年6月号)でも、お知らせしている映像制作集団・空族(くぞく)の新作『サウダーヂ』を先日、調布の日本現像所にて行われた初号試写で、いち早く観てきました! これが、本当に良かった。これは凄いです。こんな映画を、このタイミングで観られるとは! 『サウダーヂ』は、ついに完成したんです。

今月末の6/26(日)、第4回爆音映画祭でのプレミア上映が決まっていますが、前売り券はすでに完売とのこと。当日券も、ある一定数は出るらしいので、いち早く観たい! という方は、ぜひチェックしてください。

昨年の夏、映画『デルタ 小川国夫原作オムニバス』の公開直前の関連イベントが一週間、行われました。そのときに観たひとつに、『FURUSATO2009』がありました。空族の富田克也監督が、『サウダーヂ』撮影前に、取材で取りためた映像を、高野貴子さんが編集した約1時間のドキュメンタリーです。
そのとき、ぼくは、何とも感想の言いにくい作品を観た、と感じていました。そのとき会場にいた高野さんにから、感想を求められて、ものすごく感覚的な、言葉にならない感想を伝えたのを覚えています。というか、すごく感覚的なことなので、明確には覚えていないですというか。

ぼくには、これまで、映画館のスクリーンのなかに「みた」だけの体験なのに、それがあたかも、自分自身がその場にいたように感じてしまい、しかもそのことを具体的には忘れてしまって、もう一度、画面のなかにそれをみたときに、「あれ? ここって、どこだっけ? 自分の知ってる場所の映像だ」と、不安定な気持ちになってしまうという経験が、少しだけあります。
『FURUSATO2009』は、それに近い〈生〉な体験ができた、久しぶりの作品でした。(ほかには、1990年代の映画『いつものように』や『百年の絶唱』などが、自分にとってそういう作品ですが、どちらもフィクションの映画です。)

たぶん、そこには、映画をうまく見せたり、見たり、といったことを越えた、精神性のようなことで通じ合う何かがあるのでしょう。

その『FURUSATO2009』の向こうに見えていた『サウダーヂ』には、もちろん期待が膨らむばかり、でした。富田監督は、DOOM!Radioでの“雑談”のなかで、

あのとき面白かったのは何故? と理由を考えて、それをフィクションの中に紛れ込ませるんです。

ということを語っていますが、まさに『サウダーヂ』は、その“面白い”ことの、断片の積み重ねによって立っている映画。167分もある、長い映画ですが、いや、でもそんなに長くは感じませんでした。ひとつひとつのカットが、意味を成すか、成さないかのギリギリのところで、踏みとどまり、踏みとどまり、じわ、じわと映画を運んでいきます。

舞台は、甲府。人通りのまばらな中心街の、シャッター通り。現在の日本の“地方都市”を絵に描いたような街。富田監督の前作『国道20号線』の世界観を、さらに押し広げた“その街”が、『サウダーヂ』の主役のひとりです。
そして、昼間は不況の土建業で働き、夜は「酒と女」に稼いだお金を使ってしまう男たちと、彼らを取り巻く女たち。そのなかには、日系ブラジル人、タイ人などの外国人労働者も多く、彼ら全員が主役のように描かれています。

映画がはじまって、まずワンカット目は、ラーメン屋のシーンですが、もう、なんというか、その場面がパッと写った瞬間から、何だか可笑しい。

『サウダーヂ』に限らず、空族の映画は、“社会派”のように言われることが多いらしいのですが、実は本質はそこにあらず、とぼくは見ています。

何よりも良いなぁと思うのは、その“可笑しさ”です。
何ともやりきれない、深刻な“可笑しさ”もある。
悲しい“可笑しさ”もあり。
バカバカしい“可笑しさ”もある。
真剣な“可笑しさ”もあり。
しみじみとした“可笑しさ”もある。

ぼくは『サウダーヂ』を観ながら、その複雑に入り組んだ“可笑しさ”の世界に、迷い込んでいました。そのとき、たとえば、「にもかかわらず笑う」という、べてるの家のユーモアを思い出したりもします。描かれているのは深刻な、現在の日本社会が抱えている問題なのかもしれないが、「にもかかわらず笑う」部分が、『サウダーヂ』には、これでもか! というほど詰め込まれています。

これから、おそらく何度も何度も、観る映画になるでしょう。

8月あたりから、長期に渡ってロードショーになる予定だそう。ぜひ、ご期待ください。

いや、しかし、何という映画でしょうか。ちょっと、まだ、何と言葉にしていいか、わからない状況で今回は書きました。

茫茫 この辺 微かなみどりの匂いもして
わたしがひぐらしとともに在る なつかしさ
ついの旅のはて 時のほとりで

カナカナ カナカナ カナ
(宮越妙子「晩夏」)

数日前の「道草のススメ」でも書いたけれど、宮越妙子さんが亡くなりました。ぼくは4月にお会いしたのが、最後でした。
この数ヶ月、あまりの、この別れの多さに、ぼくは妙な気分になっていますが、宮越さんは82歳。ほとんど会うたびに、これが最後になってもいいといった覚悟を、それも、宮越さんならではのユーモアを湛えた言い方で、語っていたのを、ぼくはお会いするたびに聞いていました。こういう別れがあるたびに、いや、こんなに早くこの時が来るとは思わなかった、と、毎回のように思っている気がします。でも、これが現実。

宮越さんとは、ぼくは詩誌『repure』の読者として、「09の会」の参加者のひとりとして、お会いしました。
ぼくから見た宮越さんは、詩の合評会に出てくる人によくある(と、ぼくはいつも批判気味に言っていますが)、「詩として」を評価するような姿勢は皆無といってよく、自身が見たこと、聞いたこと、考えていることを、淡々と、ときに饒舌になって語っていました。
詩には、むしろ饒舌とは遠い、“絵”や、“歌”といった要素の強い作品が多くて。その言葉の重さに、ぼくはいろんなことを感じて、いまとなっては短い時間でしたが、宮越さんと同じ時を過ごすことができました。
いや、それより、また宮越さんとバカ話がしたい。大いに笑って。

4月、最後にお会いしたとき、あの高田の馬場の会議室を、宮越さんは最後まで出ようとされず、ぼくを相手に話しつづけていて、そんな我々を、誰だったか、呼びに来られたのを、思い出します。宮越さんは、そこで過ごす時間が最後になることを、無意識下で気づいていたのでしょうか。

我々は、いってしまった人の分まで、これから、また少しずつ、少しずつ、生きていくしかありません。彼らと過ごした時間を、力に変えて。ご冥福をお祈りしつつ。

(初出:「アフリカン・スクラップ・ブック」2011/06/12)

 *

先週、観た『サウダーヂ』については、また近々、ゆっくり書きます。

文中に『アフリカ』第10号を増刷したという話が出てきますけど、『アフリカ』を増刷することは基本的にはなくて(雑誌は、その時々のものなので)、いまのところその時だけです。
なぜ増刷したのかというと、その号に書いていた井川拓さんが急逝して、彼が生前に発表したものとして『アフリカ』を配りたいという依頼がご遺族からあったからです。
井川さんは空族の創設メンバーで、名づけ親でした。構想に終わった彼の小説が元になって、空族という名前になったんです。
その井川さんが最後の頃に書き残していた『モグとユウヒの冒険』という物語(大人のための児童文学といった感じ?)が私はとても気に入っていて、いつか本にしたいと思っていましたが、このたび、ようやく完成しました。

その本のことはもちろん、近々じっくり書きます。

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