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ぽつり、ぽつりと、つぶやくように

きみの魅力はなにかの罠なのだ(福間健二)

今日、府中で撮った写真をよく見ると、そのなかに最近亡くなったはずの人(と似た人)が歩いている。

その人のことを思い出して、ある書店に寄った。その人の詩集を1冊、買った。移動中に読んだ。声にしようと思わなくても、自然と声が溢れてくるような、よい本だ。

私は東京の某所で5、6年前、その人に何度か会ったことがある。その人は私の親より少し年上というような年齢だった。でも正直な感想を言うと、もっと老いている人のような感じがした。

その某所で、私は若き表現者たちを相手に"ことばのワークショップ"というふうなことを何年も続けていた。彼らは、大学受験を理由としてそこに通っていたが、いまそこで起こっていることに囚われていて、自らの、未確定の未来にじゅうぶん取り組めていないような気がしていた。

ボンヤリした未来に向かう、誰も見てくれないかもしれない作品をつくり、孤独に差し出してみる、という経験が彼らの未来を強いものにするだろうと私は考えて、何年もかけて彼らと付き合っていた。

そこに登場したのが、その人だった。別の場所で出会っていたなら、どんなによかったろうと思う。

私は、こう考えていた。若い人たちが自ら企てて、身近にいる年配者に手伝ってもらうというふうになればよいが、と。

でも現実は逆になった。

もちろん何が正解で、何が不正解かは、わからない。

私の思っていたことは、若い頃のあなたが、いまのあなたをどう見ているだろう? ということだ。

これは私の今後、私の未来にかかわる問題なのだ。まだまだ、じっくり付き合っていよう。

その人が急逝したことで、私はその人の作品に対し、無駄な感情をなくして自然に読んだり見たりできるようになった。残念なような、ありがたいような、複雑な気持ちだ。でも、残念だと言ったところでその人が生き返るわけではないので、ありがとう、と言っておこう。もちろんそのようにして作品を残してくださったことに対してのお礼だ。

人生は短いようで、長い。今日だけで同じ詩を何度読んだか。そこに私は果てしない時間を感じている。

以上は、ぽつり、ぽつりと、つぶやくようにしか書けなかった。それでも、書きました。

(つづく)


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