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"続ける"の技術と魔力

この「道草のススメ2019」は、とりあえずは毎日、毎日、"続ける"ことを目的として書いているのだが(強調しますけど、"目的"としてます、"手段"じゃなく"目的"です)、毎日、毎日といっても、「とりあえず今日は書こう」と思ってやっているので、「ずっと続けなければ」と考えてやっているわけではない。

「続けなければならない」となると、おそらく苦しくなるだろう。苦しいと続けられない。できるだけ楽したい、ぼくは。

依存症から快復してゆく人たちは、たとえばアルコール依存症なら、「今日は飲まない」を続けるのだそうだ。はじめてその話を聞いたのは15年くらい前だったかな。それはいい、というか、それしかないのだ。と思った。

遠くを見るのではなく、足元を見なければならない。

遠くを見て、遠くまで歩いてゆける人が大きな仕事を成すのだと思われている節もあるだろうが、実際にはそうではないとぼくは信じている。あまり遠くを見てはいけない。今日の一歩を進める。

気づいたら遠くまで来ていたということはあるだろうが、それでも、また今日は今日の一歩を進めるだけだ。

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このnoteというシステムには「スキ」というボタンがあるが(フェイスブックからツイッターに"飛び火"した「いいね」の類ですね)、まったくアテにしてない、そのボタンを押したい人は、迷わずぜひ押してください、でも、読んで、何かを感じたら、それでじゅうぶん。

課金システムがついているのは、面白いような気もするけれど、お金を払わないと読めないものをここに書く日が来るかな…? そう思うのは、自分自身がお金を払ってウェブのコンテンツを読むという経験をしていないからだろう。

一方、お金を払って買ってくれる人たちには、何かもっとかたちのあるモノをお届けしたい、と相変わらずアナログ感覚丸出しで考えていて。触れるものが好きというか。何というかね。

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ぼくの編集・発行している雑誌『アフリカ』は、"続ける"ということは考えずにやる、と決めて始めて、最初の号は創刊号とも何とも書かれてない、いきなり「2006年8月号」だった。月刊ではなく、「出た年月」を記してあるのだった。そっけないことこのうえない。

なぜそんなことを考えたのか? というと、その前につくっていた雑誌(4冊つくって休止した)で、一緒につくっていた人たちの中に、"続ける"ことの意識を強すぎるくらい感じたからだ。

ぼくはそれが(どういうわけか)すごく苦しかった。それで今度はもう"続ける"のを止めたわけだ("続ける"どころか、始めましたとも言ってない)。

「この一冊をつくる」でいいではないか、と。

いま思えば、それこそが"続ける"極意だったかもしれない。いや、それでも「続けなければ」と思ってはならない。今回でおわるつもりでやればよい。と、13年たったいまでも毎回考えている。

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"続ける"ことによって、何が見えて来るか。それはわからない。わからないから、楽しい。新しい景色が見えてきたら、嬉しい。それは他人からの評価によって開ける景色ではない。孤独な道のりを、今日もまた一歩、一歩進めるか、というだけだ。孤独と書いたが、続けていたら、その時々で、必ずよい読者に恵まれる。ぼくの経験と感覚で言うと、必ず、と言い切ってよい。しかしその読者は、どこかで、ひっそりと、誰にも知られず読んでいる者かもしれない。ぼくはその読者の姿に、自分の姿を重ねる。

(つづける)

「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"は、1日めくって、2月12日。今日は、靴下の話。※毎日だいたい朝に更新しています。

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