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過去の自分の言葉が未来で放つふしぎな魅力

先日、久しぶりにFacebookを開いて自分の過去の投稿を読み返してみた。楽しかったことや悲しかったことや何となく感じたこと、考えたことをシンプルに綴っていて、友達とのコメントでのやりとりも「今の私ならこうは返さないだろうなぁ」と思う言葉たちが並んでいて、少しの驚きを覚えつつ同時に微笑ましくも感じた。

6年前、7年前、8年前の自分の言葉。(私がFacebookをよく使っていたのはこの3年だけだった)

旅行とか友達と遊んだとか何か特別な日のことよりも、日常のささいな投稿のほうが後から読み返すとおもしろい。

仕事が早く終わり夕暮れ時に帰路についた日の空の色や空気の匂い。音楽を止めてセミの鳴き声を聞きながら歩いた夏の日のこと。散歩中の見知らぬ犬としばし見つめ合って幸せを感じたこと。本を読んだ直後の、まだ感想がまとまらないぼんやりとした感情の断片。

そういう本当にささいな、文字にして残していなければ永遠に忘れていたであろう瞬間の記憶が、それを書いている時には思ってもいなかった力を持って未来の自分の心を揺さぶる。もうここにはいない自分、どこかへ置いてきた自分が残した生きた言葉は、どうにも切なくていとおしい。

年月を経て読み返すだけで自分の言葉が驚くほど味わい深くなることを久しぶりに実感して、日常のささいなことをもう少しまめに、シンプルに、書き残しておきたくなった。未来の自分がふと読み返した時に何かを感じるきっかけになるように。

手帳にはたまに短い日記を書いたり、Twitterでは日々感じたことをぽつぽつと吐き出したり、noteではある程度ボリュームのあるエッセイとして考えを書き残したりはしている。でも、もう少し何かを変えて書きたい気分だ。その"何か"が一体何なのか、まだよく分からないけど…。

とりあえず、noteの下書きがたまる一方で今年まだ1つも投稿できていなかったので、今の気持ちをシンプルに書いてみた。完成間近のまま熟成させすぎている下書きがあるので、そっちも早く書き上げたいな。

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