見出し画像

色彩の海に還る

 水面が揺れている。きらきら、きらきら。

 この街を出た8年前と変わらぬ色の海が、私の目の前で夕陽を浴びて光っている。薄い灰色の砂浜の上に、真っ白な貝殻が散らばっている。波打ち際で声を上げてはしゃぐ息子の背中を眺めながら、藍はそっと溜息を洩らした。
 この街に帰ってくるつもりはなかった。でも、他に選択肢がなかった。3歳の息子を抱えて離婚した藍のお腹には、新たな命が宿っている。見た目ではまだわからない。でも確かに、自身の内側で小さな心臓は呼吸をしている。悪阻で眩暈を起こしながら区役所に離婚届けを出しに行った日、藍は安堵と罪悪感の狭間で、車のなかで一人、嗚咽した。

「おかあさーん!」
 芳樹の呼ぶ声にひらひらと手を振って応えながら、下がっていた口角を何とか引き上げる。今目の前にいる命と、私の体内にある命。どちらもあまりに重過ぎて、時々押しつぶされそうになってしまう。
「みて!これ、きれいでしょ?」
 駆け寄ってきた芳樹の掌には、小さな丸い乳白色のガラスの欠片が握られていた。
「あぁ、シーグラスね」
「シーグラス?」
「そう。ガラスの欠片が海の波に揉まれて角が取れて丸くなるとね、こういう綺麗なカタチになるんだよ。それを、シーグラスって言うの」
「へぇ、すごいね。もっとさがす!いっぱい!」
 嬉しそうに駆け出した芳樹の足が、砂を蹴り上げながらもどかしそうに前に進んでいく。その後ろをゆっくり追いかけながら、昔こうして星司とシーグラスを拾い集めていたことを思い出した。私が一つ見つける間に、彼は三つ見つける。「狡い」と抗議の声を上げると、星司はいつもゆったりと微笑んでこう言った。
「しょうがないよ。だってこの海は、俺の命だから」

 星司とは、同じ街で生まれて兄弟みたいに育った。彼はどこか風変りで、いつも少し周りから浮いていた。でもそのことを、彼自身は大して気にしていないみたいだった。
 星司の母さんは、この海で星司を産んだ。産み月になっても海に入ることをやめなかったしーちゃん(私は星司の母さんをこう呼んでいた)は、泳いでいる最中に産気づき、海水に身体を漂わせたまま星司を産み落とした。胎内で繋がっていた臍の緒が、星司の命を守ってくれた。星司は、この海に抱かれて産まれたのだ。
 互いに憎からず想い合っていた。でも私がこの街を出ることを決めたときから、彼と私は世界線を分けた。星司はこの海から離れては生きていけない。私はそれとは反対に、この街ではうまく呼吸ができなかった。別れの日の朝、私たちはこの海で最後のときを過ごした。8年前のあの日、二人でかちりと鳴らしたラムネの瓶。それを未だに捨てきれないでいるのは、単なる感傷に過ぎない。

 この街を出てほどなく、他の人と恋をした。その人と結婚をして、子どもを産んだ。けれど、その人との間にあった愛みたいなものは、綿飴みたいにしゅわしゅわと溶けて消えてしまった。婚姻届けにサインをしたら、家族になれるのだと思っていた。同じ苗字になったら、その人と何でも分かり合えるのだと思っていた。現実は、むしろ真逆だった。一緒に暮らし始めた途端、色々なことがうまくいかなくなった。見なくていいものまで見えてしまう。言わなくていいことまで口から溢れ出す。そのたびにすり減った。互いの粗を探し、言い負かされないように必死になる。そんな日々を5年も過ごした。
 今年の3月、二人目の子どもを授かった。藍はそれを機に、家族としてもう一度関係を修復したいと願っていた。でもその願いが独りよがりであったことを、別れた夫の一言で思い知った。
「二人目もできたんだし、もうそういうのいいでしょ。悪いけど、もう藍に対してそういう気分になれない」
 ベッドのなかで、元夫の身体にそっと触れた。そのとき彼はそう言って、くるりと私に背を向けた。背中から、はっきりとした拒絶の色が見て取れた。その翌日、藍は離婚届を書いてテーブルの上に置いた。彼は、あっさりと同意した。


*

「帰ろう、芳樹」
 悪阻のピークを過ぎたとはいえ、まだ体調は万全とは言えなかった。そもそも妊婦生活に於いて、万全な体調で過ごせる日などありはしない。どこかしらが軋み、どこかしらが揺れている。一つの身体に二つの命を宿すというのは、そう簡単なものではないのだろう。
 遅くなると母の小言が飛んでくる。今は余計なストレスを増やしたくない。小さな田舎町で、お腹を膨らませて子連れで帰ってきた独り身の女は、噂話の恰好のネタだ。「出戻り」と囁かれるのは想定の範囲内。“何故出戻ったか”の部分を、思い思いに空想してそれが事実であるかのようにあちこちで語られることも。そして藍の母は、それを耳にするたびに分かりやすく不機嫌になる。
「あんたのせいで、この年になってまで色々言われるのよ。良い迷惑だわ」
 母は、後妻だった。父は妻がありながら母と不倫をし、私ができたことをきっかけに前妻と別れた。泥棒猫と呼ばれ続ける母。泥棒猫の娘、と呼ばれ続ける私。そんな私たちを最終的には「疫病神」と呼んだ父。私は、自分の生家がずっと嫌いだった。そして今尚、私たちは蔑まれている。
「罰が当たったのよ」
 鼻を高くしてそういう人たちは、きっとただの一度も過ちを犯したことがないのだろう。そのしたり顔を見ると、反吐が出る。

「おかあさん、はい、これ」
 薄い水色のシーグラスを、芳樹が掌に乗せてくれた。冷たくてざりざりしているその感触が、ひどく懐かしい。海の傍で産まれて、海の傍で生きてきた。生家に未練はなくとも、海だけはひたすらに恋しかった。
「ありがとう」
 小さな掌を繋いで、さくさくと浜辺を歩く。早く帰らなければ。そう思いながらも、足取りは重かった。仕事を見つけて収入が安定したら、アパートを借りよう。でもそれには、この子を産んでからでなければ。
 微かに膨らんでいる下腹部をそっと撫でた。伝わってほしくない感情が産まれたとき、思わずお腹に手を当ててしまう。それはもはや無意識の行為であり、懺悔でもあった。


*

「今日も同僚の吉田さんに聞かれたのよ。“どうして娘さん帰ってきたの?何かあったの?”って。面白そうな顔をしてさ、本当に底意地が悪いわ」
 そんな話をわざわざ当人の私に聞かせることは、底意地が悪いとは言わないのか。そう思ったが、口には出さなかった。その代わりに返事もしなかった。この手の話に最初はいちいち謝っていた。でももう、それすら面倒になってしまった。
「芳樹、手を洗っておいで。ご飯にしよう」
「えー、もうちょっと」
 芳樹は、毎日のように絵を描く。夢中で描いている間、それを邪魔されることを彼はとても嫌がる。
「ワガママ言うんじゃないの!早く手を洗ってきなさい!全然躾が出来てないんだから」
 私を睨みながら甲高い声を出す母の顔は、昔と変わらず余裕がない。愛していたはずの人に背を向けられ、周りからも疎外され、父が数年前に死んだときには親戚からも父と同じ台詞を吐かれた。「疫病神」と呼ばれた私たちに、遺産なんてものはほとんど残されていなかった。無駄に広くて古いこの家と、僅かばかりのお金。父が生前記していた遺言書により、遺産のほとんどは前妻の子どもが相続した。専業主婦だった母は、父の死後パートを掛け持ちして必死に働いている。そんなところに嫁に行ったはずの娘が子どもを抱えて帰ってきたのだ。余裕など、あるはずもない。
 それでも、芳樹にだけはもう少し柔らかく接してほしかった。彼はまだ子どもで、そもそも私や母の柵とは何の関係もない。でもその気持ちを、上手く伝えることができずにいた。

「早くしなさい!芳樹!!」
 重ねて怒鳴る母に、堪らずこちらも声を荒げた。
「子どもに怒鳴らないで!!」
 昔の自分と芳樹が重なる。苛立ちを吐き捨てるかのように、母はよくこうして私に怒鳴り散らした。
「ごめんなさい、おこらないで、ふたりとも」
 泣きべそで洗面所へ駆けていく芳樹の背中を、霞んだ視界でじっと見つめた。庇っているつもりでも、私の怒鳴り声も彼にとっては“怖いもの”なのだろう。元夫との諍いがヒートアップしたとき、ヒステリックに怒鳴った私の腕を掴み、芳樹はさっきと全く同じ台詞を呟いた。震える声で、目に涙をいっぱいに浮かべて。

「ごめんなさい、おこらないで、ふたりとも」

芳樹はなんにも、悪くないのに。


*

「藍?」
 聞き慣れた声が、背中から降ってきた。小さな街だ。いずれ再会するであろうことは分かっていた。
「久しぶり、星司」
 彼がこの街から出ていくわけがない。この街には、彼の”命”がある。
「帰ってきたんだって?」
「仕方なくね。他に帰れる場所なんてないし」
「贅沢言うな。帰れる場所があるだけいいだろ」
 言いたいことを言いたいように言う。昔とちっとも変わらない彼の淡々とした口調が、妙に癇に障った。
「星司は、変わらないね」
「え?」
「逃げるようにしてこの街を出た私が、逃げるようにしてまた此処に帰ってきた理由も知らない癖に」
 吐き捨てるように言葉を投げる。あんなに大事な人だったのに、久しぶりに会えた感慨よりも苛立たしさが勝った。そんな自分に、更に苛立った。しかし星司は、そんな私の口調を意にも介さず言った。
「知らないよ。だって俺たち、8年間会ってないんだもん。話してくれなきゃ分からない。でも、話してくれたらちゃんと聴くよ」
「なんで?」
「え?」
「なんで久しぶりに会った星司にそんな話しなきゃいけないの?私たち別に何でもないじゃん。そもそも昔だってちゃんと付き合ってたわけじゃないし。いきなり何?距離感おかしくない?私はもう星司のことなんて何とも思ってないし、別にそういうつもりで帰ってきたんじゃないし」
 止まらなかった。自分でも不思議なほど、怒りの感情が身体中を駆け回る。目の奥がかっと熱くなり、気道が狭まる。どくどくと脈打つ首の血管が、鈍く痛んだ。
「なんでかな。なんとなく、聴いてほしいのかなって思ったんだ」
 私の怒りをまるで素通りして、星司が言った。当たり前のことを言うみたいに。一滴のためらいもなく。
「それから、俺にとって藍はずっと大事な人だよ。何処にいても、何をしてても」
 8年ぶりに再会した幼馴染は、相変わらず人とは違う感性をしっかりと持ち合わせていた。
「それ、何の前置きもなくスーパーの駐輪場で言う台詞?」
 思わず苦笑が漏れた。私は昔、彼のこういうところがたまらなく好きだった。


 再会してからというもの、頻繁に星司が家に寄るようになった。仕事帰り、手持ち花火のパックを揺らしながら子どものように芳樹を誘う。
「芳樹、花火しようぜ」
 芳樹はあっという間に星司に懐いた。子どもの直感は鋭い。敵意を隠し持っている大人からはさっと離れて私の背中に隠れる彼が、星司とは一度目から驚くほど打ち解けた。
「せいちゃん!うん、やる!!」
 芳樹が、昔の私と同じ呼び方で星司を呼ぶ。私はもう、あの頃の私じゃない。それなのに、息子が昔の私みたいに彼を信じきって甘えている。その光景を見るたびに、喉の奥が柔く締め付けられられるような気持ちになる。「藍もやろう、線香花火。競争しようよ」
 どちらが長く火の粉を保ち続けられるか。そんな他愛ない根競べを、昔よく彼とやった。何故星司は、こんなにも変わらないままでいられるのだろう。8年も経った。人が変わるには十分な時間だ。
「ねぇ、星司」
「うん?」
「星司は、その…付き合ってる人とかいないの?」
「いないよ。今は」
「今は、ってことは、前はいたんだ?」
「うん。婚約していた人がいたけど、別れた」
「え?」
「式の直前でだめになった。”何考えてるか分からない”って。俺、やっぱり少し変わっているみたいだ。そんな変なやつだって自覚ないんだけどな」
 笑いながら星司が言う。その横顔があまりにさっぱりとしていて、思わず笑ってしまった。
「ごめん、星司」
「え?」
「私も、星司は変なやつだと思うよ」
「何だよ、藍まで」
「でも、その”変なやつ”に救われる人もいるんだと思う。だから、そのまんまでいてよ」
 星司の線香花火が一番最後まで落ちなかった。彼は、色んなものに愛されている。それなのに、彼が愛した人は彼から離れた。世界中で当たり前に起こっている小さな出会いと別れが、当人たちにとってはこの世のすべてだったりする。人の生きる世界は、恐ろしいほどに狭くて深い。
「もっかい!もっかいやろ!」
一番になれない悔しさを滲ませながら、芳樹がふくれっ面で言う。
「よし、やるか!」
 男二人で始めた勝負を、少し離れた後ろ側からそっと見ていた。空に星が降っている。地面すれすれで咲く小さな炎の花を、月明かりが照らしている。うっすらと膜を張った瞳を、慌てて擦った。悲しいときも嬉しいときもうまく泣けない癖に、こういう名前のない感情が溢れたときだけ前触れもなくこぼれてしまう。
「わーい!かった!!」
 ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、芳樹が顔中で笑っている。どうやら勝負がついたらしい。本気でやって負けたのか、わざと勝たせてくれたのか。どちらでもいい。芳樹が嬉しそうに笑っている。それだけで、私には十分だった。
「ありがとうね」
 素直にそう言った私の頭を、星司の手のひらがそっと撫でていった。懐かしいその仕草にくすぐられた心が、騒がしく音を立てる。これもきっと、ただの感傷だ。

 信じていたものが崩れる音を、私はもう聞きたくない。”家族”になった途端に壊れてしまうのなら、私はもう、そんなもの要らない。


「もうあんまり、家に来ないで」
 抑揚のない声でそう言った私に、星司は「なんで?」と尋ねてきた。説明したくないものを説明するとき、嘘のない言葉を使うのはとてつもなく難しい。
「周りがよく思ってないから」
「なんで?」
 どうにか絞り出した端的な言い訳に、子どものように「なんで?」を重ねてくる。彼のこういう察しないところは、長所でもあり短所でもある。
「なんでって、当たり前じゃない?子どもがいて、お腹も大きくて、出戻ってきたばかりの女が他の男としょっちゅう会ってたら、周りは色々勘繰るでしょ。言いたいように言う人たちのほうが多いんだから、星司もあることないこと言われるよ。だからもう、あんまり会わないほうがいい」
「なんで?」
「だから……!!」
 苛立って声を荒げようとした私のことを、珍しく星司が遮った。
「なんで、そんな”言いたいように言う人たち”に気を使って生きなきゃいけないわけ?藍や芳樹が俺に会いたくないって言うなら、俺は行かない。でも、そんなどうでもいい人たちのために、会いたい人に会いに行くのをやめる気はない」
「星司……」
「手放したくないものを黙って手放して後悔するのは、あのときだけでたくさんだ」
 藍の脳裏に、8年前の朝の海が浮かんだ。おそらく星司も、同じ風景を見ていた。そのことに気付いてしまい、尚更恐ろしくなった。
 大事な人と人生を重ねる。でもその道がまた塞がったら、積み重ねてきた思い出さえも嘘みたいに塗りつぶされてしまう。星司とは、思い出が多すぎる。それを失うことは、私自身を失うことと同義だ。そんなの、耐えられそうもない。
「ごめん、星司。私には無理」
「何が無理なの?」
「星司といるのが、怖い」
 あまりに言葉足らずな台詞を放り投げて、彼に背を向けた。あの日の朝、私に背を向けた元夫のように。
 彼がすでに誰かと幸せに生きていてくれたら良かった。私なんて入る隙間もないほど、他の誰かを愛して家庭を営んでいてくれたら良かった。そうしたら、こんな思いをせずに済んだ。
 本心から”要らない”と思っているものを捨てただけなのに、何故こんなにも苦しいのだろう。星司は、こんな女のどこが良いのだろう。

 私は、昔も今も、自分のことが大嫌いだ。


「おかあさん、せいちゃん、こんやもこなかったね」
「……うん、そうだね」
「おしごと、いそがしいのかなぁ」
「うん、多分そうだよ」
「こんどなわとびおしえてくれるってやくそくしたの。ねぇ、せいちゃん、いつきてくれるかなぁ」
「どうかな……。芳樹、もう寝なさい」
「うん……。おやすみ」
「おやすみなさい」
 星司がぱたりと来なくなって、5日が過ぎた。「怖い」と言われた側の痛みを想像できないほど人でなしではない。しかし、「男漁りに帰ってきた」と噂されても平気でいられるほど図太い性格でもなかった。何より、”怖い”と感じたのは本心だった。日々少しずつ風船の空気が膨らんでいくみたいに、私のなかに占める彼の存在が大きくなる。昔の思い出と今が重なる。そのたびに、名前のない感情が涙腺を刺激する。始まりがあれば終わりもある。始まると同時に、終わりに向かって歩いている。
 芳樹には可哀想なことをしてしまった。新しい父親とまではいかなくても、良き相談相手として星司が傍にいてくれたら心強かったろう。でも私たちは、そんなふうに曖昧なままで傍にいることはできそうもない。

「おかあさんは、せいちゃんがすき?」
「まだ、起きてたの……?」
「ねぇ、すき……?ぼくは、せいちゃん、だいすきだよ」
「……どうして芳樹は、せいちゃんがそんなに好きなの?」
「だって、せいちゃんはおかあさんのこと、だいすきだもん」
「え……?」
「おかあさんのことをだいすきなひとだから、きっとせいちゃんは”いいひと”だよ。ぼくは、おかあさんのことをきらいなひとはきらい。でも、せいちゃんはだいすき」
 私の後ろにさっと隠れる芳樹の顔は、いつもぐしゃぐしゃに歪んでいた。あれは、自分に向けられた敵意を感じていたんじゃない。母親である私に向けられた敵意を感じて怯えていたのだと、ようやく気付いた。
「せいちゃんはいつもいってくれるよ。『だいじょうぶ』って。どんなしんぱいなことがあっても、それでほんとに”だいじょうぶ”になるんだよ。あいたいな。あしたは、きてくれるかな……」
 芳樹の声が、眠りの世界にゆるゆると吸い込まれていった。その声が途切れると同時に、健やかな寝息が静かに寝室を満たした。

 強烈に想った。

 星司に、会いたい。


「藍、どうした?」
 息を切らして目の前にいるその人の顔を、まじまじと眺めた。帰ってきて初めて、藍は星司の顔をちゃんと見た気がした。
『話したいことがある』と連絡をしたら、すっ飛んできてくれた。ぐっすりと眠っている芳樹を起こさぬよう、そっと寝室を抜け出す。居間では、母がまだ横たわってサスペンスドラマを見ていた。
「ちょっと、出てきてもいいかな……」
 恐る恐るそう言った藍をちらりと見て、母は抑揚のない声で静かに言った。
「あんたは、疫病神じゃない。母さんは、前の奥さんと子どもから父さんを奪った。でもあんたは、生まれてきただけだ。何も悪くない。だからあんたは、母さんみたいに小さくなる必要なんてない」
「お母さん……」
「もっと早く、あんたにこれを言うべきだった。ごめんね」
 ”ごめんね”を口にしたとき、母は私に背を向けた。小さく丸まった背中を眺めながら、私も言った。
「母さんだって、疫病神なんかじゃない。だって……私を、産んでくれた」
 返事を待たずに襖を閉めた。母と私はよく似ていて、生粋の負けず嫌いだ。泣き顔を娘に見られるなんて、きっと何よりも嫌うだろう。
 お互い本音を言い合うのに、27年もかかってしまった。どうして、家族ってこんなにも面倒くさいのだろう。


「この前、ごめんね」
「……とりあえず、海行かない?」
「うん」
 付かず離れずの距離で歩いていた私の手を、星司が握った。驚いて顔を向けると、彼が言った。
「嫌なら離すよ」
「嫌じゃ、ないよ」
 そこからは、海に着くまでお互い黙っていた。手のひらから流れてくる温かさに、胸が詰まった。面倒なものを両の手いっぱいに溢れんばかりに抱えて、それでもその面倒なものほど大事だと知っているから、取りこぼさないように必死になって生きている。人はみんなそんなふうで、それがとても苦しいことみたいに感じていた。必死になった結果、取りこぼしてしまうこともあると知り過ぎていた。そのぶん、どんどん臆病になっていった。でも、私が背中を丸めて生きていたら、芳樹までそうなってしまうかもしれない。お腹のなかにいるこの子も、同じようになってしまうかもしれない。
 この世界に、”生まれてこなかったほうが良かった命”なんてない。どの命も、平等に尊い。疫病神だなんて、そんなふうに人を蔑む資格は、本来誰にもないはずだった。


「乾杯、しようぜ」
「それ……」
「ビールにしようか迷ったけどな」
「それのほうが、いい」
「うん」
 8年前の朝、私たちは此処で最後の乾杯をした。ラムネの瓶を、カチリと鳴らして。暗闇に浮かぶガラス瓶のなかで、ビー玉が薄く光っている。月明かりは、どこまでもやさしい。
「乾杯」
 あの日と同じように瓶が鳴った。その音がとてもきれいに響いて、それだけですべてが繋がったような気がした。

「ずっとね、怖かった」
「何が?」
「星司とは思い出が多すぎて、もしもだめになっちゃったら、元夫とそうなったとき以上に立ち直れないって思った。そうなったら、芳樹もこの子も今より傷つくって思った。壊れないって決まってるものなんてない。家族になるって、そんな簡単じゃない。そういうの全部、怖かった」
「壊れないって決まってるものなんてない。でも、壊れるって決まってるものもないよ」
「うん……、そうだね」
「あと、もしも。もしも万が一そんなことがあったとしても、思い出は壊れない。思い出は思い出のままだよ。相手のことをどんなに嫌いになったとしても、思い出まで無理に憎む必要ないだろ」
「そう……なのかな」
「そうだよ。その瞬間の想いはそのときのものだろ。それを疑ったり壊したりする必要なんてない。藍と元旦那さんだって、ちゃんと愛し合ってた時間があった。だから芳樹がいるんだろ。藍の父さんと母さんだってそうだよ。藍がいる。それが証だ」
 思わずお腹を撫でた。後ろめたかったからじゃない。ちゃんと聴かせてやりたい言葉だったからだ。人はみな、愛されて生まれてきた。そんなきれいごとを信じられる世界でこの子たちに生きてほしいと、心から願った。
 

 ラムネを飲みながら、星司が言った。傾いた瓶のなかで、カラン、とビー玉が鳴る。
「なぁ、”まほろば”って知ってる?」
「まほろば?」
「素晴らしい場所、住みやすい場所、っていう意味だよ」
「へぇ、そうなんだ」
「俺、自分にとってのまほろばは、この海なんだってずっと思ってた。この海の傍で生きてさえいれば安心だって、そう思ってた。でも、そうじゃなかった。それじゃ半分だけだったんだ」
「半分?」
「そう、半分。場所だけじゃだめだった。人が本当に帰りたい場所は、人だったんだ」
 ラムネの瓶を地面にことりと置いて、星司は真っすぐに藍を見据えた。
「俺はこの海の傍で、藍と一緒に生きたい」
 テトラポットに当たった波が砕ける音が、背後で響いていた。薄闇のなかでその音はたしかな威圧感を持って迫ってきたけれど、それでも星司の静かな声は、しっかりと藍の耳に届いた。
「せいちゃん……」
「懐かしいな、その呼び方。俺やっぱ、そっちのほうがいいな」
 少しはにかんだ顔で彼が笑う。その顔を見て、自然と頬が濡れた。
 青から藍へ、時に緑、時に橙。時間帯によって刻々と変化するこの海面の美しさが最も高まる宵の明け。薄い紫色が海面と空との間に漂うあの一時の彩り。その色彩を、もう一度彼と見たい。この先も、何度でも。

「せいちゃん」
「おかえり、藍」
 海と淡い星空を視界の端で捉えながら、私たちはそっと唇を重ねた。8年前の朝に重ねたときと同じ、柔くて甘い、ラムネの味がした。

ようやく見つけた。私の、”まほろば”。

「ただいま。せいちゃん」



『Night Songs コンテスト*Muse*』参加作品となります。

素敵な楽曲からインスピレーションを得て創作することは、この上ない喜びでした。素晴らしい機会を与えてくださり、本当にありがとうございました。


この作品は、過去に執筆した創作小説の続編になります。ご興味を持たれた方は、こちらの作品も読んで頂けるととても嬉しいです。





最後まで読んで頂き、本当にありがとうございます。 頂いたサポートは、今後の作品作りの為に使わせて頂きます。 私の作品が少しでもあなたの心に痕を残してくれたなら、こんなにも嬉しいことはありません。