見出し画像

【そんな人だと思わなかった】

なるべく言葉を選び、丁寧に人と接したい。基本的には、そう思っている。でも、常にそうできるわけじゃない。24時間、誰に対しても「いい人」でなんかいられないし、嫌なことをされたらムッとするし、理不尽に叩かれたら血管がキレそうになる。喜怒哀楽ぜんぶ、それなりに持っている。アイコンの奥にいるのは、常に一定の動きをするロボットじゃない。生身の人間で、感情にもホルモンにも波があって、余裕のあるときもあれば今にも溺れそうなときもある。

しかし、SNSの世界では、その大前提が案外簡単に忘れ去られてしまう。人は変化する生き物であるはずなのに、変化を許容しない圧が、あちらこちらに点在している。

「そんな人だと思わなかった」

そう言われたとき、反射的に「ごめんなさい」と思う。でも、ほぼ同時に「私はこういう人間です」とも思う。相手を傷つけたのならともかく、想像と違った私の一部を見て勝手に幻滅されても困る。生き物はみな多面体で、一面だけで構成されるのは無機物だけだ。植物であっても、春夏秋冬で姿形を変える。枯れ枝、開花、新緑、結実、濃緑、紅葉、落葉。顔は、ひとつじゃない。みんないろんな顔があって、表情があって、色がある。

「腹黒い」という言葉があるが、腹の中が真っ白な生き物は、生まれたての赤ん坊くらいだと思う。誰しも、黒い部分もあれば白い部分もある。何なら、白と黒だけではなく、青も緑も紫も赤も黄色もある。どの色を多く見せるのか、どの色を隠すのか、どの色が自分にしっくりくるのか――多くの人は、そういうことを考えながら日々生きているし、発信をしている。植物と人との違いは、「どの顔を見せるか」を選べるところにある。特にネット上では、良くも悪くも、いかようにも見せられる。

私は基本的には、穏やかな人間に見られることが多い。でも、実は感情的で、衝動的な人間である。穏やかな人間に見られがちなのは、私が無意識にそう振る舞っているからだと思う。できるだけ平和に暮らしたいし、攻撃されたくない。だから、自分も理由なしに攻撃するような真似はしない。ただし、時と場合によっては、感情を爆発させてしまう。例えば、人としての尊厳を著しく傷つけられたり、大事な人が理不尽な攻撃に晒されている場合などだ。

親しい友人たちは、私のそういう一面をよく知っている。知ったうえで、「そこも含めてすきだ」と言ってくれる。そういう人たちの存在に、日々支えられている。

「そんな人だと思わなかった」

そう切り捨てて離れるのは、自由であると思う。SNSくらい、気の合う人同士でつながりたい。“合わない”と感じる人と、ネット上でまで無理につながる必要性を、私個人は感じない。ただし、それを相手に伝えるのは、また別の話だ。一側面だけを見て勝手に描いた偶像を押し付けてはいないか。その一言が、相手の発言や思想を狭める可能性を考えたか。そういう視点を、忘れないでいたい。

見えるものがすべてじゃないし、見えないもの、見せていないもののほうが圧倒的に多い。その裏側、見えづらい部分にこそ、目をこらしたい。影の部分を想像する配慮なくして、人との関係は築けない。これは、SNSだけに留まらず、あらゆる人付き合いにおいていえることであろう。

いつから人は、人をジャッジできるほど偉くなったのだろう。そんなふうに思う一方、果たして自分はそうじゃないと言い切れるだろうか、とも思う。無意識に、一側面だけを見て他人をジャッジしてはいないか。その想像力もまた、忘れたくない。人は誰しも、自分のことほど見えづらくなるものだから。

最後まで読んで頂き、本当にありがとうございます。 頂いたサポートは、今後の作品作りの為に使わせて頂きます。 私の作品が少しでもあなたの心に痕を残してくれたなら、こんなにも嬉しいことはありません。