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【大人が“きれいごと”を諦めたら終わりだ】

昨日、withnewsさんで全5話の連載コラム第1話が公開となりました。連載は毎日更新を予定しており、本日すでに第2話が公開となっております。

コラム冒頭に、以下のような前置きを書きました。

私は、世間一般でいわれるところの「虐待サバイバー」です。そのうえで、ここに綴る内容はすべて私個人の体験・主観であることを明記しておきます。汎用性のある情報ではなく、一個人の記録に過ぎません。ただ、その一例を通して、少しでも多くの人に虐待被害の現実と後遺症がもたらす苦しみを知ってほしいと願っています。

私は専門家ではなく、いち当事者に過ぎません。しかし、だからこそ伝えられる現実があると思い、今回の連載に至りました。

正直なところ、自身の過去は「知られたくない」類のものです。文章はひとたび表に出せば、さまざまな見解が生まれます。最初の2年は、それがたまらなく辛かったです。覚悟が足りなかったといえばそれまでの話ですが、そううまく割りきれない自分もいました。「原体験を武器にしている」と言われるたび、叫びそうになりました。「武器にできるほど生易しい代物ではないのだ」と、そう怒鳴り散らせたら、どれほど楽だったでしょう。

過去の私は、大学ノートや原稿用紙に心情を書きつけるのが常でした。パソコンもネット環境も、手に入れたのはここ最近(2年ほど前)のことです。それまでは、紙とペンがデフォルトでした。元々筆圧の強い私は、次のページにうつり込むほどガリガリと文字を書き殴っていました。自身の過去、忘れたい記憶、腐りゆく感情。そういったあれこれを、誰にも見られない場所で、自分のためだけに書いていました。それは時にエッセイであり、小説であり、ただの文字の羅列でもありました。体液にまみれてよれた紙面を、書いては破り、書いては燃やし、寝食さえも忘れて感情や記憶を文章に落とし込む――それが唯一、まともな息継ぎを許される時間だったのです。

表で書く。それは、前述した行為とは、まったく性質が異なるものでした。「見られる」と思うだけで、未だに全身が竦みます。しかし、その恐れは必要なものだと思いました。書けば書くほど、それは確信に変わりました。「誰が読むかわからない」という前提を常に頭に置き、四方八方から眺め回す。そうまでしても、足りない部分がゼロになることはありませんでした。誰も傷つけない文章なんてない。そうわかってはいたけれど、だからといって「傷つけてもかまわない」と開き直るのは嫌でした。傷つけるかもしれない可能性をできる限り減らす。それを怠っていいとは、どうしても思えなかったのです。

負った傷が深ければ深いほど、その痛みを覗き込む側の負担も大きくなります。それでも、書いて伝えたい現実と思いがありました。葛藤と挫折を繰り返し、幾度となく道を見失いました。しかし、そのたびに書き手仲間や読者の方々に救われ、腹に力を入れ直しては筆を握り直しました。その繰り返しで、気づけば3年が経っていました。

連載すべての記事を、振り絞る思いで書きました。そういう書き方が正しいかどうかはさておき、悔いを残すのは嫌だったのです。

大人がきれいごとを諦めたら終わりだと思っています。「虐待被害ゼロ」だなんて、夢物語だと人は言います。でも、過去の私は、その夢物語が現実になるのを切実に願っていました。諦めながらも、どこかで願っていました。諦めない大人が救いに来てくれるのを、ずっと待っていました。だから私は、きれいごとを諦めたくありません。

「書いたからって何がどうなるでもない」と言われることもあります。でも、少なくとも「何もしない」よりはマシなはずです。

最終話に込めたメッセージが、然るべき場所に届いてほしいです。そのためにも、今回の連載が広く読まれることを願います。


※以下、公開順に記事のリンクを追加していきます。

本記事には、フラッシュバックを引き起こす恐れのある描写が含まれています。
くれぐれも無理はなさらず、ご自身の体調や心理状態にあわせて読み進めていただければ幸いです。

■連載コラム第1話

▪️連載コラム第2話

▪️連載コラム第3話

▪️連載コラム第4話

▪️連載コラム最終話


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